【島根】津和野町出身の画家で絵本作家の安野光雅さんが、94歳で亡くなった。その生涯、古里での幼少期の記憶をいとおしみ、こよなく町を愛した。

 「あの山と川と道はいつも私の中にあるんです。故郷に帰るとすぐ津和野弁になる」「津和野へ帰るのは、いまでも子供のころに帰る旅です」(朝日新聞のインタビューから)

 大正が昭和にかわった1926年の生まれ。生家は街中の宿屋だった。客にお茶を出したり下駄(げた)をそろえたりしながら、客向けの「キング」「日の出」「太陽」などの雑誌を見ては絵の模写をし、小学生になる前から画家を志した。「講談や小説の挿絵が私を絵かきにしたんです。子供の時、ピカソやゴッホの絵をみていたら画家にはならなかったでしょうね」

 長じて、安野さんが夢見た古里の風景は、観光客向けのものではなかった。「友達の家の裏庭や魚の穴場、みみずのいる紙工場のゴミ捨て場、芝居小屋の跡、城へ行く裏道(むかし勤労奉仕で作らされた恨みの道)、鼠(ねずみ)を殺す小川、芸者の置き屋、おがくずの原っぱなど」だった。数多い著書の中でも『津和野』(1980年、岩崎書店)は、津和野の街の津々浦々の思い出を、安野さん独特の淡い色合いのスケッチとともに振り返っている。

 39年まで津和野で過ごしたのち、山口を経て上京したが、津和野への思いは薄れることはなかった。

 75歳の誕生日を迎えた2001年3月20日、町立安野光雅美術館がJR津和野駅前にオープンした。安野さんは建設計画の会見で、「美術館建設の話が出てから、私のほかに別の安野光雅がいて独り歩きしているようで、照れくさい思いです。設計には津和野で過ごした子ども時代の思い出も生かしてもらいました」と話した。

 著書の装丁・挿画を担当したことから、当時の皇后美智子さまが03年10月、来訪し、「この美術館に来ることを楽しみにしていました」と語った。

 津和野、日原(にちはら)の両町が05年に合併して新しい津和野町が誕生すると、町章を制作。二つの巴(ともえ)と曲尺(かねじゃく)をあしらったもので、巴には両町の融合を、曲尺には「正しさ」の意味を込めた。

 アンデルセンの「即興詩人」は同郷の文豪、森鷗外が翻訳し、無人島に持って行くと言うほど安野さんは大好きだった。鷗外は「余ハ石見人森林太郎(りんたろう)トシテ死セント欲ス」という有名な遺言を残したが、安野さんも同様の思いかもしれない。(小西孝司)

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 ゆかりのあった関係者が、安野光雅さんの死去を悼んだ。

 津和野町のJR津和野駅前にある町立安野光雅美術館は今年3月、開館20年を迎える。青木貴志副館長によると、安野さんは開館記念日の3月20日に毎年のように訪れ、コンサートやトークショーも開かれていた。安野さんが同館を訪れた最後は2017年、91歳の時だった。

 前町長で美術館名誉館長の中島巖さん(87)は「町民の要望で美術館建設構想が立ちあがり、安野先生にご承諾を頂くため、何度も上京した」とし、「開館記念日に何度も津和野を訪れてくれたのは、先生の感謝の気持ちの表れだったのでは」と振り返った。

 美術館には安野さんの作品約3千点が寄託されているが、町は昨年9月、一部作品の購入を決め、昨年12月には安野さんを名誉町民に選定した。下森博之町長は「訃報に接し、悲しみに耐えません。先生には美術館の運営や展覧会などを通して町の文化振興や観光をはじめとする地域振興に多大な貢献を頂きました。これまでの功績に感謝と敬意を表し、ご冥福をお祈りします」と談話を出した。下森町長は「安野先生は数年前までは毎年1回、記念館に来られていた」と振り返り「(津和野について)優しい語り口で、『日本の原風景を思わせる。日本人にとってのふるさとだ』と語っておられた」としのんだ。

 美術評論家で、開館当初から館長を務める大矢鞆音(ともね)さんによると、安野さんは相手が話を理解していない時は理詰めで説明をする人だったという。「『数学なんて最初からやっていけば難しいもんじゃない』なんてこともおっしゃって」。コンピューターについても、「美術の先生がこんなに詳しいのか」と驚いたこともあったという。「頭の中は理系と文系両方あって、幅広い豊かな想像力・空想力があった。そしてその考えを出す表現力と技術力、時間をかけてきっちり描きあげる集中力を持ち合わせた人だった」

 昨秋に電話で話した時には「体は大丈夫」と話していた。安野さんの95歳の誕生日で、美術館の開館20年の日を迎える3月20日に向け、両方のお祝いを兼ねて準備をしていたという。

 小泉八雲記念館(松江市)の小泉凡館長は10年、八雲の愛読者という安野さんと県立美術館での公開対談で初めて会った。

 小泉さんによると、八雲(ラフカディオ・ハーン)が生前、母ローザの肖像をほしいと思っていたことから、安野さんはローザの出身地のギリシャへ行き、ローザの写真を見たことがある人たちに話を聞いて、2枚の肖像画を描いたという。

 小泉さんはその絵を1枚もらい、レプリカを記念館に展示している。「80歳を過ぎておられたが、『自分で運転したよ』とおっしゃって、八雲の父の出身地のアイルランドにも行かれていた。島根への思いが強く、ポジティブで好奇心に満ちた方でした」(水田道雄、榊原織和)

故郷をめぐる安野光雅さん語録

◇「津和野は山に囲まれた町で、一里四方ほどの青空の下に、ひっそりとした町屋が並んでいる。夕暮れどき、家々の煙突から出る煙が霞(かすみ)のようにたなびく様を思うとき、私はつくづくこの町が故郷という名に価(あたい)すると思う」(1980年、岩崎書店『津和野』)

◇「津和野へ帰るとき、私は、いつもトンネルの数をかぞえた。それは、何かが起こることを予告する、秒読みのようなものだった」(同)

◇「故郷がすばらしいのは、例えば津和野がディスカバージャパン的であるからではない。誰にとっても、その故郷には、子どもの時代に通じる道があるからである」(同)

◇「(津和野駅の)機関庫跡は廃墟(はいきょ)と化し、夏草が繁(しげ)っているが、ここは永久に保存してもらいたいと思う。私にとってはローマの円形劇場よりも感動的な場所なのだ」(同)

◇「最近わが故郷へ捧げる『つわのいろは』を作ったので披露したい。夢に津和野を思ほえば 見よ城跡へ煙る山 うさぎ、ふな、鯉、稲、すぐり 遠雷それて 風立ちぬ」(1994年7月)

◇「小学校も川も柳も、何一つとして思い出のないものはない。みるみるうちにおびただしい楽器が鳴り始め、わけのわからない大交響曲がはじまるのだった」(2000年、岩波書店『故郷へ帰る道』)

◇「時代は変わっても、変わらなくていいもの、変えてはいけないものがあるでしょう。子供のころに見た風景はその一つだろうと、僕は思っているんだ」(01年3月)

◇「わたしの田舎の津和野も(中略)ある日、交通手段、情報経路などの変化のため、産業の構造、町のたたずまいなどが激変した。気が付いてみたら町の人口だけでなく、年齢層も変わり、町のようすは昔とは違ってしまっていた。この間、少なくなった同級生十人あまりが集まって、昭和初期の町の地図を復元したが、懐かしさと、諦(あきら)めのまざった、楽しい集まりだった」(02年12月)

◇「数年前、津和野の流鏑馬(やぶさめ)の祭りの日のこと、7歳のわたしに肘鉄砲(ひじでっぽう)を喰(く)わせた女性に会いました。『あの悲しみは一生忘れんけー』『覚えとりませんがそりゃーすまんことをしました』。同級生だったから、もうおばあちゃんです」(07年6月)

◇(小学校の脇を通る汽車が時計代わりだったといい、)「汽車が行く先にどんな世界があるんだろう。そう夢をはぐくんでくれた」(08年3月)

◇「私は89歳になりました。平和憲法の危機を思います。自分たちにひきつけて考えるため、故郷の津和野の方言で憲法を訳し始めました。まだ一部分ですが、力の限り、言葉と絵で平和の大切さを伝え続けたいと思います」(15年9月)

◇「津和野には小学校までしかいなかったけれど、なぜか見る夢の舞台は津和野なんです。あれは不思議ですね」(18年8月)

*朝日新聞の連載やインタビュー、著書から紹介

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