[PR]

 阪神・淡路大震災から17日で26年。広島で原爆、神戸で震災を体験した男性は、大学職員として未曽有の環境で入試の準備に奔走した日々を振り返り、コロナ禍の受験生にエールを送る。

 広島市中区の新見博三さん(81)は、26年前のスケジュール帳を今も大切に保管している。

 1月14日から15日にかけて矢印を引っ張り、「DNC(大学入試センター試験)」の文字。16日には「答案等返送」と書いてある。17日、「13:30 入試担当課長会議」の予定の横に「中止」。そして、後から書き加えた赤い字が目立つ。「阪神淡路大震災(AM5:46)」

 当時55歳。神戸大学(神戸市灘区)の学生課長だった。

 入試シーズンまっただ中の寒い朝、兵庫県西宮市の官舎で異様な揺れに襲われた。淡路島北部を震源とする最大震度7の大地震。

 通勤電車は止まり、自転車を18キロ走らせて職場へ。1カ月半、大学に泊まり込み、学生の安否確認や就学支援、入試環境の整備に追われた。寝床は床に敷いた段ボール。大学は避難所となり、体育館や会議室に最大約3千人の被災者が身を寄せた。

 大学の被害は甚大だった。学生39人、職員2人の計41人が犠牲に。異常事態の中、「入試という社会的責務を果たす」と使命感に燃えた。国立大が入試を行えなかったのは、学生運動が激化した1969年の東京大などごくわずか。大阪大と岡山大の協力を得て、3会場で入試を実施できることになった。

 新見さんが大惨事に見舞われたのは、人生で二度目だった。

 地元・広島の上空に米軍が原爆を投下したのは、6歳になったばかりの1945年8月。当時、爆心地から1・7キロの自宅にいた。

 ガラスが体に刺さったまま、親戚に手を引かれて逃げた。崩れた自宅の下敷きになった母とは後日、喜びの再会を果たした。

 被爆時に着ていた服を年中着続けた。遺体が浮いている川で魚を釣って食べた。テント状にしたトタン板の下で暮らした。

 高校へ進んだが、家計への負担を考え、国公立大以外への進学は無理だと悟る。親に内緒で受けた東京の私大に合格したが、本命の広島大は不合格に。国家公務員採用試験に合格していたため進学はあきらめ、広島大に就職した。

 山口大や滋賀医科大などにも転勤し、退職後はヒロシマピースボランティアとして活動した。2016年に心臓の手術をしてから、声が出なくなった。言語聴覚士の指導を受けながら、懸命にリハビリに励む。

     ◇

 被災の混乱の中で迎えたあの冬の入試から26年。センター試験に代わる大学入学共通テストが16日、始まった。新型コロナウイルス感染拡大の不安の中にいる受験生たちに、厳しく優しく、ひらがな表を指さしながらエールを送った。

 「コロナの影響を受けてきたのは、全国の受験生皆同じ。コロナの有る無しに関係なく成果をいかんなく発揮できるよう、精いっぱい頑張ってほしい」(宮崎園子