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東海の防災を考える

 早春の冷たい空気のなかでも、ヘリコプターの操縦桿(かん)を握る手はじっとりと脂汗をかいていた。

 2011年3月14日。陸上自衛隊第10師団(司令部・名古屋市守山区)の飛行隊で航空操縦士だった秋田智仁さん(37)=現在は司令部の航空班長=は、宮城県亘理町の上空を飛んでいた。飛行隊が拠点を置く明野駐屯地(三重県伊勢市)を、震災の翌12日早朝に出発。津波の水がまだ残るなか、約450メートル上空から見る地上は、見渡す限りのがれきの山だった。

 「高齢の女性を含め3人ががれきで周囲をふさがれ、逃げられなくなっている」

 14日の早朝、救助要請を受けて女性の家をめざした。津波から4日目でもまだ、倒壊を免れた家に取り残された人がいた。

 しかし、「地図は役に立たなかった」と秋田さん。当時の自衛隊ヘリは、地図を頼りに、主要な道路や集落など目標となるものを見つけながら目視で飛んでいた。GPS(全地球測位システム)は、当時はまだ搭載されていなかった。

 被災地では、目印となるはずのものが津波で流されたり、がれきで覆われたりしており、そこが道だったのか田畑だったのかさえ見分けがつかない。飛ぶ手がかりが少なかった。操縦士として2年目だった秋田さんには、そんな状況は初めてだったという。

 少ない情報を頼りに現場に到着。高度を20メートルほどまで下げていくに従い、倒壊した家の木片や電化製品など、生活の痕跡がくっきりと見えてきた。

 ホバリングし、ヘリから下ろし…

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