大部俊哉、編集委員・牧野愛博
東京のJR新大久保駅で韓国人留学生の李秀賢(イスヒョン)さん(当時26)が線路に落ちた日本人を助けようとして死亡した事故から、26日で20年となる。李さんが語った「人をつなぐ」という夢は今も生き続けている。(大部俊哉、編集委員・牧野愛博)
「日本語の勉強を頑張って、ワールドカップで通訳のボランティアがしたい。そして、いつか韓国や日本をつなぐ仕事に就きたい」
李さんは英語の授業中、教員の田中展子さん(74)に目標を聞かれ、はにかみながら答えた。2000年夏。サッカー・ワールドカップ(W杯)日韓大会が2年後に迫っていた。
李さんは韓国の高麗大学に在学中、地域研究の授業で日本に関心を持ち、留学先に選んだ。00年1月に赤門会日本語学校(東京都荒川区)に入学し、日本語と英語の授業を受けていた。スポーツが得意だった李さんは、「スポーツ関係の研究をするため、早稲田大の大学院を目指している」と話していたという。そのため、入学に必要な英語も、日本語と並行して学んでいた。「入学当初から英語力はひときわ目立っていた」と田中さんは振り返る。
机にはいつも、使い古してボロボロの日本語と英語の2冊の分厚い辞書を広げていた。会話の授業で口にした夢が「韓国語と日本語、英語の3カ国語を使って人と人をつなぐ」こと。その一つがW杯だった。
時事問題にも関心が深く、00年6月の初の南北首脳会談を報じる英字新聞を食い入るように読んでいた姿を、田中さんは忘れられないという。「真面目で勉強熱心。そして行動の人」。初級クラスから入った日本語は、半年で上級にも手が届くほど上達した。夏休み明けに日焼けで真っ黒になって登校した李さんに理由を尋ねると、「マウンテンバイクで富士山に登りました」
この行動力と精神力、人柄なら望んだ未来を実現できる――。そう信じて疑わなかった田中さんに、事故の知らせは届いた。その日は大雪。李さんの来日から、わずか1年後だった。
内閣府の世論調査では、事故のあった2001年度には「韓国に親しみを感じる」が50・3%でした。しかしこの20年で日韓関係は大きく変わりました。李さんの行動の意味を、改めて考えます。
田中さんは30年間務めた同校…
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朝日新聞国際報道部