タイのくびれに運河構想 時の覇権国の夢、いま追う国は

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クラ地峡〈タイ南部〉=吉岡桂子
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 マレー半島がタイで最も細くなる地峡に、運河をつくる構想がよみがえっている。海運の要衝マラッカ海峡を通らず、太平洋からインド洋へ――。地域で影響力を拡大したい国が繰り返し描いてきた「タイ運河」計画は、「不死鳥」とも呼ばれる。21世紀のいま、関心を寄せるのはあの国だ。(クラ地峡〈タイ南部〉=吉岡桂子

 タイの南部、マレー半島のくびれに「クラ地峡」と呼ばれる場所がある。東はタイ湾、西はアンダマン海にはさまれ、もっとも細くなる部分は50キロに満たない。ゴムの木やヤシの緑が濃く、水辺にはマングローブも茂る。ミャンマーが目と鼻の先だ。

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クラ地峡の地図

 このクラ地峡の周辺に運河を通す構想は、17世紀から語られてきた。多くの船が集中するマラッカ海峡を回らず、インド洋と太平洋を往来できる。狙いは時間の短縮だけではない。マラッカだけに海路を頼るリスクを減らせる。

 19世紀にはインドやミャンマーシンガポールなどを植民地にしていた大英帝国が関心を持った。紅海と地中海をつなぐエジプトでスエズ運河を建設した関係者も訪れた。だが巨額の工事費に加え、マラッカ海峡の価値が国の存亡にかかわるシンガポールへの配慮もあって、実現しなかった。

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クラ地峡記念碑地点から臨むクラブリー川。マレー半島のつけ根に位置し、タイ湾とアンダマン海にはさまれた地域で、もっとも狭いルートは50キロ足らず。日本は第2次世界大戦末期、ミャンマーへの軍需物資を運ぶため横断鉄道を敷いた。戦後に撤去された=2020年8月31日、タイ南部・ラノン県、吉岡桂子撮影

 第2次世界大戦末期には日本軍が運河構想のルートに沿って鉄道を敷いたが、敗戦で今や跡形もない。そして戦後、日本は再び舞台に顔を出す。1950~70年代の高度成長で、中東から大量の石油を運ぶようになったからだ。

 米国、フランス、タイと組んで日本の財界が熱をいれた。だが、核爆発を用いた開削の検討が明らかになり、「唯一の被爆国として無神経すぎる」と国会で猛反発を浴びた。80年代から90年代にも経団連などが再び関心を寄せたが、バブル崩壊で立ち消えになった。

 地元のタイでも繰り返し議論…

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