防災、意識高くなくても 釜石の中学生助けた楽しい授業

有料会員記事

構成・太田原奈都乃

拡大する写真・図版川崎杏樹さんの母校・釜石東中があった場所には震災後、釜石鵜住居復興スタジアム(奥)ができた=2020年12月25日、岩手県釜石市鵜住居町

[PR]

 東日本大震災から、まもなく10年。未来を考えた時、いま、大切にしたいことは――。岩手や阪神・淡路大震災があった兵庫で、防災を教わり、教えてきた3人が「伝える」ためのヒントを考えます。昨年12月、オンラインで語り合いました。

 《川崎杏樹さんは大学卒業後、岩手・釜石に戻って語り部になった。震災時、釜石東中の2年生。校舎は津波で全壊したが、地区の小中学生のほとんどが助かり「釜石の出来事」と呼ばれた。震災の前年度、川崎さんに防災の授業をしたのが森本晋也さんだった》

 ――防災学習に関わるようになったきっかけは?

 川崎 震災から9年間を過ごすなかで、教訓は自分たちから発信しないといろんな人に届いていかないと思った。私自身、あの日の記憶がどうしても薄れていってしまう。語ることで記憶を残しておきたい気持ちもありました。

 ただ、伝えるってすごく難しい。未来館に来て下さる方は予備知識がさまざま。私が伝えたいことがまるまる全部、伝わるかっていうとそうではない。どうしたらその人の心に響いて、その人のためになるのかを見極めることを意識してきました。

拡大する写真・図版川崎杏樹さん

かわさき・あき 釜石東中2年の時に東日本大震災を経験。山梨県の大学を卒業後「復興に携わりたい」とUターン。昨年4月から釜石市の津波伝承施設「いのちをつなぐ未来館」で案内役を務める。24歳。

 森本 私は香川県出身で、津波や地域のことはよく知らなかった。震災の5年前、釜石東中に転勤した時、生徒と一緒になって勉強しました。自分のためにも「どうやったら津波を体感できるか」。明治三陸大津波のときの両石湾の津波の高さ13・4メートルを校舎の4階に矢印で掲げて、下からみんなで見上げてみたり。授業参観を兼ねて、親子で起震車に乗ってもらうこともした。

拡大する写真・図版明治三陸大津波の時に学区内で最も高かった津波高を計測。校舎4階に矢印で示して体感した=2009年10月、岩手県釜石市の旧釜石東中、森本晋也さん提供

 川崎 今になって、気づくことが多いです。「ああいう活動が役に立ったんだな」って。

 印象に残っているのが、先生が校庭で津波の速度で車を走らせて、生徒たちと競走する授業。森本先生がすごい楽しそうに追い抜いていくんです。どんなに頑張っても勝てない。こわいだけの学び方じゃなかった。防災って案外こんな感じでできるんだと知ってほしくて、未来館でこの話をすると、子どもたちが笑うんですよ。「えっ、車で追いかけられるの?」って。

 森本 それは総合の授業でやった学習ですね。沿岸部では時速36キロくらいの津波が来るとされているので、座学で勉強するだけでなく、その速さを体感してほしかった。

拡大する写真・図版森本晋也さん

もりもと・しんや 2006年4月、社会科の教員として釜石東中に赴任し、震災前年の10年3月まで防災教育を担当。現在は文部科学省の安全教育調査官として、防災教育の普及に取り組んでいる。53歳。

 ――釜石東中ではそもそも、どうして防災学習に力を入れていたのですか?

 森本 私が取り組み始めたき…

この記事は有料会員記事有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら