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 【福岡】戦時中に出征する兵士に贈られたとみられる日の丸が昨年末、米国などを経て遺族の元に帰った。旗には本人や広島高等工業学校(現広島大工学部)の教員らの寄せ書きがあり、大学側が福岡県内の遺族を見つけ出した。旗を贈られた男性は戦死しており、遺族は「本当によく帰ってきた」と先祖へ思いをはせている。

 旗は縦70センチ、横85センチ。校名と「必勝 廣瀬壽一君」の他に、「広島醸造学会」の文字と28人の名前が書かれていた。27人の名前が当時の学校長や教員と一致し、残るローマ字表記の1人も教員に該当者がいた。

 ことの始まりは、沖縄県出身で米国ミシガン州在住の節子ブランダーホストさんが、友人から譲られた日の丸を「ご家族に返したい」と広島大に相談したことだ。この友人は1987年から2003年に沖縄の米軍基地で教師をしており、その間に那覇市内で着物などと一緒に購入したと話していたという。旗が沖縄にたどり着いた経緯は分かっていない。

 広島大総合博物館の清水則雄准教授や職員の池田礼さんらが遺族捜しにあたった。過去の在籍一覧などから壽一さんの名前が見つかり、住所は三潴郡鐘ケ江(現大川市)と記されていた。地元の郷土資料などの手がかりを探るうち、かつて現地に同じ「廣瀬」を冠した「廣瀬酒造」があったことが分かった。既に廃業していたが、更に調査を進め、遺族に行き着いた。

 昨年12月、博物館から連絡を受けたのは廣瀬哲夫さん(56)=福岡市西区。「旗の存在は全く知らず本当に驚いた」と振り返る。

 壽一さんは1915年生まれで、1890(明治23)年創業の酒造の跡取りだった。哲夫さんが福岡県の兵籍簿を調べたところ、壽一さんは「久留米商業」を卒業後、広島高等工業学校に進学し、酒造科の選科生を1936年に終了した。39年に臨時召集され、陸軍の歩兵第48連隊に入隊。42年にビルマ(現ミャンマー)で戦死した。

 博物館によると、寄せ書きした教員の在籍時期から日の丸は38年か39年ごろのものとみられ、兵籍簿の記録とも一致する。

 壽一さんが戦死した3カ月後に父親も亡くなり、廣瀬酒造は廃業した。母親のツカヘさんが1人残され、後に養子に入ったのが哲夫さんだ。

 哲夫さんは「戦争がなければ酒造は今も続いていたと思う」と話す。小学生の頃にツカヘさんから亡くなった壽一さんと父親の話を聞いていた。「当時は幼くまだ理解できなかったが、自慢の息子だっただろう。旗が戻ってきたことを喜んでいると思う」

 哲夫さんの妻直代さん(54)は「壽一さんの魂が帰ってきたよう。今回調べたことをまとめて子どもたちに書き残したい」と話す。

 同博物館には、出征時の日の丸で、保存状態がよく時期や寄せ書きをした人物が特定できるものはこれまでなかったという。遺族の「みなさんに見てもらえれば」という思いもあり、今後は博物館での展示を検討している。清水准教授は「戦争を経験した貴重な資料。若い人に旗を通じて平和を考えてほしい」と話している。(宮野拓也)