鳥取県内で保存活動が続けられている「山陰柴犬(しばいぬ)」。戦争や伝染病の流行で一時は絶滅の危機に陥ったが、地元有志らでつくる「山陰柴犬育成会」の熱心な保存活動で約520頭まで復活。SNSをきっかけに人気が高まっている。

 昨年6月、大山町の写真家、豊哲也さん(42)がツイッターに投稿した写真が話題を呼んだ。2頭の山陰柴犬の子犬が顔を寄せ合い、元気よく走る姿をとらえた一枚だ。そのかわいさは瞬く間に拡散され、今年2月12日時点でリツイートは約2万2千、「いいね」は約9万2千を記録している。

 山陰柴犬は県中部の湯梨浜町を中心に飼われてきた小型犬。名古屋大などの研究で朝鮮半島の犬とのつながりが強いことがわかっている。一般的な柴犬と比べて頭部が小さく、筋肉質で引き締まった体が特徴的だ。小さめの耳はぴんと張り、左右の耳の間が狭い。草むらでも足どりは軽やかで、かつては猟犬として活躍していたという。

 育成会のメンバー、前田薫さん(69)が飼っているのは、オスで7歳の「疾風(はやて)」とメスで1歳の「もも」。前田さんに連れられ散歩に出かけた2頭は、同町の東郷池沿いを元気よく駆け回った。「こちらがびっくりするほどかしこいんです」。初めて会った記者に対しても全くほえず、穏やかな性格がうかがえた。

 山陰柴犬の保存活動に乗り出したのは、育成会の尾崎哲会長(62)の祖父、益三さんだった。昭和初期、洋犬が国内に持ち込まれ、日本犬の急速な雑種化が進んだ。地域性が失われることに危機感をもった益三さんは、県内で飼われている地犬の調査に着手。八頭地方で「因幡犬」、東伯地方で「伯耆犬」として親しまれた柴犬を集めて繁殖を進めたという。

戦争、伝染病…危機に次ぐ危機

 しかし、保存活動は度重なる危機に直面した。太平洋戦争の戦渦が広まり、食糧難で犬の飼育は困難を極めた。当時の県知事らの支援を受けて何とか二十数頭を残すと、さらなる発展をめざした益三さんは島根県西部の地犬「石州犬」を交配させ、現在の山陰柴犬の礎をつくった。

 ところが、1950年代と60年代には新たな脅威に見舞われる。ウイルス性の伝染病、ジステンパーが県内で2度にわたって大流行。益三さんの犬舎でも多くの犬が死んだ。さらに、52年の鳥取大火も東部の愛犬家の意欲をそぐものだったという。

 絶滅の危機は乗り越えたものの、知名度は長らく低迷した。山陰柴犬には一度の出産で2頭前後しか産まない特性もあり、90年ごろの頭数は約90にとどまっていたという。益三さんの死後、遺志を継いだ尾崎会長の両親と長尾節二さん(87)らは、保存活動を続けるため、地元の有志で育成会を結成した。30年余りにわたって繁殖や普及に尽力し、会員同士の連携で頭数を徐々に増やしていった。

念願の500頭超え、出産ラッシュも

 育成会によると、2月現在、県内外で約520頭が暮らしている。育成会にとって「500頭超え」は長年の目標だったといい、尾崎会長らは「(育成会が発足した)当時から考えたら想像できないくらいまで増えた」と喜ぶ。昨夏にはうれしい大出産ラッシュも起こった。

 育成会の松本守人事務局長(63)によると、SNSをきっかけに育成会への問い合わせは右肩上がりで増えている。2月現在、全国で約15人が譲渡の順番を待っているという。松本事務局長は「若い人にも関心を持ってもらい、繁殖活動にも熱心な人が出てきてくれれば」と願っている。(宮城奈々)