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 【新潟】柏崎市大久保地区は、江戸時代に「大窪村」と呼ばれ、多くの「鋳物師(いもじ)」が集まり、お寺の鐘などをつくる鋳造の地として知られた。しかし、時代の波を経て、その名残を見いだすことは難しい。この地区で今も伝統技法を用いた作品づくりに取り組む鋳金作家、原聡さん(51)を訪ねた。

 JR柏崎駅から西へ約1キロ。日本海に注ぐ鵜川にかかる橋をわたった住宅地の中に「五代晴雲 原惣右エ門工房」がある。

 原さんの技法は、蜜蠟(みつろう)を使って原型をつくる「蠟型鋳造法」と、鋳型から取り出した器を炭火で焼いて赤い斑紋を浮き上がらせる「紫銅(しどう)焼き」だ。

 今年の干支(えと)の牛の置物をつくる工程を見た。

 黄色い蜜蠟の原型に炭の粉を塗り、細かな和紙の繊維を混ぜた粘土を厚さ5ミリ程度重ねる。さらに稲わらが入った土で1~2センチほど覆う。乾燥させてから、炭火で4時間ほど焼くと、蜜蠟が流れ出して鋳型が出来上がる。

 その空洞に、銅など溶かした金属を注入。冷えたら鋳型を割って作品を取り出す。「割ってみないと、どのようになっているかわからない」。蠟型鋳造法は繊細な細工を施しやすい半面、原型も鋳型も1回限り。同じ作品は作れない。「原型を作るまではアーティスト、その後は職人の世界です」

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 この土地の鋳物の歴史は室町時代に始まる。南北朝の時代、戦乱を逃れようと河内国(現在の大阪)の職人が現在の柏崎市の山間部にやってくる。その後、良質な土が取れ、港や街道に近い大窪村に移り、鋳物づくりを行うようになった。

 「柏崎市史」によると、江戸時代の史料には歌代、小熊、原の3家を中心に50人を超す鋳物師の氏名が記載されていた。県内各地の寺から戦時拠出された鐘に関する調査では、江戸時代につくられた鐘の多くに、大窪の鋳物師の銘が記されていたという。

 19世紀に入ると鐘の製造が減少。代わって江戸で蠟型鋳造法を学んで帰郷した原琢斉(たくさい)、得斉(とくさい)兄弟が美術工芸品として価値の高い作品を世に送り出す。

 ただ、工芸品としての評価は得ながらも、埼玉県川口市など工業化が進む地域と異なり、この土地の鋳物師は減り続けた。戦時統制が進み、材料の入手が難しくなると、多くは転廃業を迫られた。そのひとりが、県内初の転業開拓団の団長として「満州柏崎村」の建設に取り組み、苦労の末、現地で亡くなる小熊啓太郎さんだった。

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 大久保の坂道の脇に「原琢斉・得斉生地跡」と書かれた看板がある。佐渡に渡って鋳造文化を根付かせた琢斉と、大久保に残った得斉。得斉の弟子として「惣右エ門」を襲名してきた家の5代目が原聡さんだ。

 四代原惣右エ門(原松三さん=故人)の長男として生まれ、京都芸術短期大学(現・京都芸術大学)で立体造形を学んだ後、柏崎に戻り、父の下で修業を積んだ。「子どもの頃から家業を継ぐものだと思っていました」

 伝統的な技法にこだわる一方で、海外のデザイナーとのコラボレーションにも取り組む。昨年はシンガポールのジャクソン・タン氏が柏崎の花火大会をモチーフにデザインした酒器「HANABI」を発表した。

 大切にしている言葉が「共に時を重ねる」だという。

 「皆さんの生活に寄り添ったものをつくりたい」。例に挙げたのが、近くの極楽寺で使われている茶托(ちゃたく)だ。作者は3代目の祖父。籠島浩惠住職(67)が「洗剤は使わず、丁寧にふきんで拭くようにしている」という紫銅焼きの茶托は、深い赤色を帯びている。「人の手で使い込まれることで色が深まり、経年の良さがにじみ出るようになる」

 多くの鋳物師たちが暮らしてきた土地への思いは、作品づくりの原点だ。「戦争の時代も、苦しさを柏崎の人々と共有させてもらったのだと思う。これからも地域の方々と一緒に、時間を過ごしていきたい」(戸松康雄)

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