第2回宮崎監督へ「絵本は無理だ」 鈴木P語るナウシカ舞台裏

太田啓之
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 宮崎駿監督が12年以上の歳月をかけて完成させた漫画『風の谷のナウシカ』。コロナ禍の現在こそ、改めて読み込みたいと考え、スタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さん(72)に話を聞いた。抱腹絶倒の「連載当時の打ち明け話」を一部紹介する。

【連載】コロナ下で読み解く 風の谷のナウシカ(全8回)

宮崎駿監督の傑作漫画「風の谷のナウシカ」は、マスクをしないと生きられない世界が舞台です。コロナ禍のいま、ナウシカから生きる知恵を引き出せないかと、6人の論者にインタビューしました。スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー、民俗学者の赤坂憲雄さん、生物学者の福岡伸一さん、社会学者の大澤真幸さん、映像研究家の叶精二さん、漫画家の竹宮惠子さんの6人が、それぞれの「ナウシカ論」を語り尽くします。

拡大する写真・図版東京都内の事務所での鈴木敏夫さんの近影。いつも素足だ=篠田英美撮影

 ――漫画『風の谷のナウシカ』の連載が徳間書店の雑誌「アニメージュ」で始まった1982年当時、鈴木さんは同誌の編集部に在籍されていましたね。『ナウシカ』の連載はどのようにして始まったのでしょうか。

 「宮さんが初めて劇場用映画の監督を務めた『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)の興行が大失敗してしまった。映画の世界って、1本でも当たらないと、その後がなかなか続かないんですよ。それでね、『この先はなさそうだから、アニメーターから足を洗おうか』と考えていた時期があったんです」

 「そのころ、彼が一番やりたかったのは絵本です。『鈴木さん、絵本の世界でメシが食えるかな?』と聞かれた。僕は『申し訳ないけどそれは無理だ』と即答しました。彼は『そんなに大変か』と肩を落としていました」

 ――今になってみると、信じられない話ですね。

 「ちょうどその頃、徳間書店グループ内では『映像企画が必要』という話になっていた。そこで、僕は宮さんが映画のために描きためてきた絵をまとめ上げて、映像企画会議に持ち込んだ」

 「ところが、映画畑の人たちからは『原作もなく、いきなりオリジナル企画で映画を作るなんてありえない』と言われてしまった。それを宮さんに伝えたら、『わかりました。だったら原作の漫画、やっちゃいましょうよ』という話になり、『ナウシカ』へとつながったんです」

拡大する写真・図版1991年、漫画『風の谷のナウシカ』連載中の宮崎駿監督

 ――絵本から漫画に路線変更したわけですね。

 「宮さんは連載を始める前、『家族を養わなきゃいけない。1枚でいくらもらえるのか』と聞いてきた。僕、しょうがないからその場で『1万円』って決めたんですよ。そうしたら彼は『たった1万円か!』ってショックを受けてしまって……」

 「当時、新人の原稿料が1枚3千円で、ちょっと描けるようになってくると5千円。超大家になると7万~8万円というのが相場でした。漫画は連載1回分が24枚というのが基本だったので、1カ月分の原稿料が24万円。宮さんは『これで食べていけるかな』と心配していた。『途中から原稿料上げますよ』とは言ったんですけど、彼はぶつぶつ言いながら描き始めてくれました」

拡大する写真・図版漫画『風の谷のナウシカ』連載第1回分から 物語の舞台となる「腐海」がすさまじい密度で描きこまれている(C)Studio Ghibli

 ――連載中は苦労の連続だったと聞いています。

 「物語の終盤で、腐海(ふかい)や王蟲(オーム)が、実は滅びた文明が作り上げた『人工的な生態系』だったことが明らかになる。それについて僕が『これ、まずいんじゃないですか』と言ったら、宮さんが怒っちゃうという事件がありました」

 「だって、映画では『腐海は自然の象徴で、腐海こそが人類を救う』って謳(うた)いあげたわけですよ。それを『人工的なもの』と言い切っちゃうのは、映画を見て感動した人への裏切りだと思ったんです」太田啓之

鈴木敏夫さんの略歴

 すずき・としお 1948年、名古屋市生まれ。慶応大文学部を卒業後、72年に徳間書店に入社し、『週刊アサヒ芸能』編集部などを経て78年、雑誌『アニメージュ』創刊作業時に高畑勲宮崎駿両監督と出会う。

 84年、映画風の谷のナウシカ』で実質的なプロデュースの仕事を開始し、85年にスタジオジブリの設立に参加。89年から専従。以降、ほぼすべての劇場作品をプロデュースする。現在、スタジオジブリ代表取締役プロデューサー。

 著書『ジブリの仲間たち』『天才の思考 高畑勲宮崎駿』『ALL ABOUT TOSHIO SUZUKI』など多数。