「どうなっている?」中部電社員がみた原発事故後の混沌

土井良典
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東海の防災を考える

 「指示をください」「(原子力の発電)プラントの状況はどうなっている?」

 原発事故対応のため、スタッフが出払い、静けさが包むホテルのホールで、何度も電話の受話器越しにそう訴えた。

 2011年3月14日。中部電力の涌永隆夫さん(64)=現・原子力部設備設計グループ専任部長=は、東京電力福島第一原発事故で混沌(こんとん)とした福島に入った。海沿いの福島第一原発から約70キロ内陸にある同県郡山市熱海町のホテルで、後方支援本部の責任者を務めた。

 中部電入社から当時30年。浜岡原発静岡県御前崎市)の運転や設備設計にかかわり、原発に精通した涌永さんにとっても、福島入りは「手順書のない日々」の始まりだった。

 原発事故の状況が把握できず、何が求められているかがつかみきれない。

 「原発の状況次第では、現場に出ている要員に避難を指示しなくてはならないので緊張感はあった」。東電からは、マスクや防護服を作業拠点になったJヴィレッジ(福島県楢葉町、広野町)に運ぶよう要請があったが、その物資も、運ぶ手段も乏しい。

 原子力災害対策特別措置法に基づき、災害時に設けられる「オフサイトセンター」も機能していなかった。当初設けられたのは、原発から約5キロにある同県大熊町内。国や自治体、原子力事業関係者の参集が難しく、停電で通信手段もほぼない状態に陥っていた。

 オフサイトセンターは本来、住民の避難や放射線量の測定、自治体との調整などにあたるはずだが、センターへの連絡もなかなかつかなかった。同15日にセンター機能が大熊町から福島県庁に移っても、しばらくは混乱が続いたという。

 「最初のころは、現地にいながら、名古屋の中部電力本店に東電からの情報がないか、聞いている状況でした」

 必要な情報がつかめずに困惑したのは、ほかの公的機関も同じようだった。「放射線の状況はどうなっているのか」「どの地域の線量が高いのか」といった内閣府や自衛隊からの問い合わせも、オフサイトセンターではなく、後方支援本部に寄せられる状態だったという。

 そもそも、郡山市のホテルで300人以上が入れるホールに作業机を並べて立ち上げられた支援本部も、準備不足は否めなかった。本来、東電の原発が被災したときに東北電力が支援の中心になるという取り決めが、原子力事業者の間では交わされていた。しかし東北電も女川原発宮城県女川町石巻市)が被災するなどしたため、急きょ中核を担うことになったのが中部電だったという。

 当初、各電力会社から支援本部に集まったスタッフは40人程度だった。涌永さんによると、オフサイトセンターとのやりとりが滞らず、支援本部の仕事が進むようになるまでに2週間ほどかかった。スタッフも300人態勢にふくれあがった。

 涌永さんは、「オフサイトセンターは県が中心になって動かす想定でした。でもそれだけでは回っていかない」。混乱のなか、本来はセンターが担うはずだった空間放射線量モニタリング調査などは後方支援本部が中心となって担当した。

 4月に始まった福島県全域のモニタリング調査は、県内を4平方キロメートル四方にわけ、約2800の定点で調べるもの。そのデータは東電を通して文部科学省にわたり、公表された。

 空間線量のモニタリング自体は、浜岡原発を含め、全国の原発で平時にも実施されている。そのため、涌永さんによると「ふだんからやっている作業で、大きな混乱はなかった」。ただし、連日作業に入ると、作業員の被曝(ひばく)線量が限度を超える恐れがあり、人員交代に気を配る必要があった。

 涌永さんが支援本部の責任者を務めたのは、11年5月末までの約2カ月半。災害に対する原発のもろさを目の当たりにした。「原発の安全性を目に見える形で見せなければ、原子力への不信はぬぐえないのではないか」と率直に思っている。

 原発に対する住民の不安は、11年5月に国から停止要請を受け、全面停止中の浜岡原発にも向けられている。

 中部電は17年、南海トラフを震源とする巨大地震などに備え、東電、北陸電力と災害時の相互支援協定を結んだ。東日本大震災のように複数の原子力事業者が被災しても、支援が立ち遅れることがないようにする狙いがある。

 浜岡で事故があったとき、オフサイトセンターは約20キロ離れた富士山静岡空港静岡県牧之原市)に置かれることになっている。「オフサイトセンターの防災対策の重要性を福島で実感した」と涌永さん。「事故の状況をいかに住民に早く伝え、避難に結びつけるかが大切。そのために、住民の方々にどうすれば信用していただけるかを、社全体で考えています」(土井良典)