第1回記者の故郷が被災、父は10年間の日々を手帳につづった

大内悟史
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 ぼくの故郷は福島県いわき市です。東日本大震災から10年たちますが、この10年間に故郷や家族の身の回りで、何が起きてきたのかを振り返りたいと思います。

 その前に、まず自らの足元を問い直すところから始めたいと思います。「ぼくの故郷は『被災地』なんだろうか。となると、ぼく自身はともかく、ぼくの家族はいわゆる『被災者』なんだろうか」

命を落とした人、住む場所を失った人たちに比べたら、ぼくは……。ポッドキャストでは、迷いを抱えながら年老いた父母の元へ向かい、取材をした大内悟史記者の耳を通して、現場を巡ります。

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拡大する写真・図版JR上野駅ホーム。故郷の福島県いわき市へ向かう特急ひたちが発着する=東京都台東区

 なんだか、むずむずと落ち着かない思いがします。あの日の地震や津波、原子力発電所事故で甚大な被害を受けた「現場」や「当事者」は数多い。そうした人たちと比べれば、ぼくの家族の被害は必ずしも大きくない。一方で、東日本各地でぼくと同じように「ここは被災地なのか」「自分は被災者か」と自問自答し、考え込んだ人も多いのではないでしょうか。

 こうした疑問に対しては、こう考えることにしています。「被災地や被災者だと自信を持って言いにくい面はあるだろう。でも、被災地や被災者ではないとも言いにくい。たぶん、何らかの意味で、被災地であり、被災者なんだろう」

 これから記すように、震災を契機に、ぼくの故郷や家族にとって、大きな変化が生じたのは間違いありません。10年もたてば、首都圏や西日本の人たちには関係がない話だと思われるかもしれません。そんな現実を前に執筆をためらう自分もいます。ですが、東北以外の地にも地震や津波などの災害は、いつかやってくるかもしれません。福島以外の原発が稼働する限り、再び大きな事故を起こす可能性がないとは言えないでしょう。どこでも被災地になりうるし、皆さんも被災者になりうるということです。そんな思いから、この10年でぼくの身の回りに何が起き、どう受け止めたのかを振り返りたいと思います。

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 実家の半壊や祖母の震災関連死。放射能の数値。そして両親は70歳代に――。東日本大震災の被災地である福島県いわき市に生まれ育った47歳の記者が、この10年間に故郷の農村と家族の身の回りに起きた出来事を、10回にわたってつづります。

拡大する写真・図版福島県いわき市の記者の実家。記者と「同い年」で、震災1カ月後の余震で瓦屋根が崩落、半壊認定を受けた=福島県いわき市

 ぼくは1973年10月に福島県いわき市の病院で生まれました。実家は、郊外のなんの変哲もない農村地帯にあります。なだらかな山並みと田畑のなかに集落が点在する景色は今も、子どものころの記憶とほぼ変わりません。

 高校を卒業するまで過ごした実家は、海岸線から直線距離で10キロ余り離れたところにあります。公務員を退職した父、大内義洋(よしひろ)(77)と母、富美子(ふみこ)(73)がコメや野菜づくりに精を出しながら、今も暮らしています。

 2011年3月11日午後、どんよりとした曇り空のいわき市内は、震度6弱の揺れに見舞われました。

拡大する写真・図版震災当時の手帳をめくる父。2011年から始まる5年手帳に日々の出来事が記されている。ガソリン給油量や給油の待ち時間から農作業の様子まで分かる=福島県いわき市

 当時67歳と63歳だった両親は実家から7キロほど離れた最寄り駅の近くの畑で働いていました。ジャガイモやタマネギの苗を植え付けしているとき、電線が大きく揺れ始めました。

 「早くこっちに来な!」

 立っていられないほどの長い揺れだったそうです。父は危ないと思って、近くの道を歩いていた下校途中の小学校低学年の児童数人を畑の真ん中に呼び寄せました。子どもたちは、四つんばいになって歩けない様子でした。

拡大する写真・図版震災当日の父の手帳。2011年3月11日の欄には赤ボールペンでマグニチュード8.8とある(後にM9.0と訂正)。農作業の様子も記されている

 しばらくすると揺れは収まりましたが、家に帰る道すがら、倒れたブロック塀を目にしました。実家もいくらか被害がありましたが、父によれば、母屋の鬼瓦が落ちたぐらいだったようです。母はそのときの実家の部屋の中の様子をこう表現しました。「冷蔵庫のドアが開きっぱなしで、食器が割れて足の踏み場がなかった。それらを片付けながら、すぐ近くの電話台までたどり着くのに1時間もかかった」

 父は当時、約100軒ある大字(おおあざ)の副区長を務めていました。街で言えば、自治会町内会の幹部にあたります。その日は、夕暮れまで被害状況の確認に歩いたそうです。「屋根瓦落下、地割れ等の被害。人的被害なし」。父の5年手帳には赤ボールペンでそう記されていました。

 気がかりは、当時30歳だった妹の恵理子(えりこ)(40)の安否でした。妹は当時実家で暮らしていましたが、そのときは市内の小名浜(おなはま)港に面した会社で働いていたのです。小名浜は午後2時46分の地震発生から1時間足らずの午後3時39分に、高さ3.3メートルの津波を観測しました。

拡大する写真・図版震災の年、我が家の長女と長男は4歳、次男は2歳になった=2011年11月

 この日の夕暮れどきの市内は厳しく冷え込み、雪がちらつき始めていたそうです。(大内悟史)

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おおうち・さとし 1973年、福島県いわき市生まれ。高校卒業まで故郷で過ごし、99年に朝日新聞社入社。月刊誌「論座」や課金サイト「WEBRONZA」(現・論座)の編集部、静岡総局などを経て、東京本社文化くらし報道部で論壇担当の記者をしています。