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 明治維新の3年ほど前、京都を目指して進む水戸天狗(てんぐ)党と、それを阻もうとした高島藩・松本藩連合軍の戦闘を活写した戦記が長野県諏訪市の旧高島藩士宅で見つかった。現代語訳を読んだ現当主は「当事者が書いただけに描写が正確。天狗党への同情にあふれていることに驚く」と話している。

 天狗党は水戸藩の元家老・武田耕雲斎ら旧藩士、浪士、農民らで構成した武装集団で、攘夷(じょうい)を旗印に挙兵したものの、時流には乗れず、藩内抗争にも敗北。前藩主の実子、一橋慶喜を通じて朝廷に嘆願するべく、約1千人で京都をめざした。

 阻もうとした幕府の命令に応じて戦ったのは、高崎藩(今の群馬県高崎市など)、高島藩(今の諏訪市など)、松本藩(今の松本市など)のみ。天狗党は越前国(福井県)で投降したが、幕府は一行約820人を厳しく処断し、斬首は約350人に達した。

 高島・松本両藩が天狗党と戦ったのは1864(元治元)年11月、中山道を上田方面から下諏訪宿に入る手前の樋橋(とよはし)(現下諏訪町)だった。地名から「和田嶺合戦」や「樋橋戦争」と呼ばれる。

 今回見つかった戦記は、「自戦和嶺記」と名付けられた約2千字の漢文。著者は高島藩用人で、軍師として戦闘に関わった塩原彦七(1815~1889)。戦闘の約200日後、幕府による天狗党への厳しい処断を知って書かれている。彦七の家は明治期に2度火災に遭ったが、それをくぐり抜けて子孫に伝わっていた。

 特徴は戦いの経過、実相が生々しく書かれていること。「他藩と同じく通過を黙認しよう」という藩内の意見に対し、彦七が「わが殿は老中である」と主戦論を展開したことも記されている。当時の高島藩主・諏訪忠誠は同年、幕府の老中に就いたばかりだった。

 彦七の戦記は昭和初期には存在が知られていたが、その後は忘れ去られていた。今回、再発見したのは彦七から4代目に当たる塩原晴彦さん(73)。父母の家にあった仏壇の引き出しで見つけた。漢文が読めないため、頼ったのが高校の同級生で歴史小説家の大久保智弘さん(73)だった。

 大久保さんは東京在住だが、茅野市に実家がある。帰省した際に取りかかり、「面白いから徹夜して最後まで訳しちゃった」と話す。昨年11月、現代語訳が塩原さんに届いた。塩原さんは生身の彦七を知って驚いた。「白髪頭でぜんそく持ちだと書いています。私も白髪だし、おやじは小児ぜんそく。彦七に親近感を感じます」

 塩原家は高島藩で300石を拝領していた。兵力優勢な天狗党に戦いを挑んだ彦七を、塩原さんは「武士道精神の体現者」とも。大久保さんは、彦七が「形勢が変われば(相手が弱いと見れば)強権をふるう」と幕府を強く批判していることに注目。「彦七は天狗党の志を大切にしていた」と話している。(依光隆明)

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 天狗党の兵力は1千人、大砲が13門、指揮する将校70~80騎。意気揚々として恐れを知らない。夜、豪雨の中で作業員数千人を使ってとりでを築いた。上田、松代、小諸の各藩は兵を出さない。兵力が少ないので戦いは不利だ。

 11月19日夜、「通過させてほしい」と天狗党の使者が来た。それを断り、「米と酒、味噌(みそ)がほしい」という願いは聞き届けた。夜9~11時のことだった。松本藩兵が合流した。

 20日午後、敵と4丁(約400メートル)の距離で向かい合った。後ろの高島藩兵は400人、左後ろの松本藩兵は100人。敵の砲弾、銃弾が降り注ぐ。敵に近づけない。敵が進軍してきたので一斉に銃を放つ。敵は再び銃を放ちながら進み、こちらも応戦する。

 夕暮れ、敵の50~60人が右方の谷に入る。やむを得ず撤退する。敵の砲弾が激しく降り注ぐ。短槍(たんそう)を持って敵陣に進む。わが兵はすでに引いている。憤怒を覚え、敵陣のすぐ前に進んで2人を刺した。さらに2人を倒したが、左肩を刺された。闇に包まれて敵の姿は見えない。助け合って帰路につく。敵は夜間に伊那の方向へ逃げた。翌日調べると敵の死者は17人だった。高島藩兵は5人、松本藩兵は3人が死んだ。

 天狗党は12月、越前に向かい、加賀藩を頼って投降した。生存者は七百八十余人だそうだ。頼岳寺の和尚が鳥取から敦賀を経て諏訪に戻って天狗党のその後を話してくれた。投降した者をことごとく荒縄で縛るとは士道を外れている。天狗党の勢い盛んなときは近づくこともせずにおびえていたくせに、形勢が変われば強権をふるう。天狗党が降伏するや、手のひらを返したように凶暴さを発揮して殺す。なんというひきょうなことであろうか。

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 塩原さんと大久保さんがもう一つ注目したのは、島崎藤村(1872~1943)との関連だ。

 藤村晩年の名作、「夜明け前」には和田嶺合戦の様子が出てくる。彦七の「自戦和嶺記」と酷似した描写が多いことから、大久保さんは「藤村はたぶん、これを見ていたはずです」。

 彦七と藤村をつなぐとみられるのが諏訪市出身の教育者、伊藤長七(1877~1930)。大久保さんは「長七は諏訪で教師をしたあと小諸に移りますが、そこで藤村と親友になりました」。塩原さんが注目するのは彦七の孫娘と長七が結婚していること。「長七との関係から見て、藤村は明らかに『和嶺記』を見ています。そっくりだもの。あ、ここのことが書いてある、という感じです」

 長七が小諸に赴任したのは、藤村が小諸で教師をしていた時。小諸を舞台にした藤村の「破戒」には長七をモデルにしたといわれる教師が登場する。長七は小諸のあと東京に移り、東京府立第五中学校の初代校長を務めた。

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