「あなた」がいない10年 悲しみを力に変えた慰霊の旅

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矢木隆晴
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 大切な人、住み慣れた町を一瞬にして奪われたあの日から10年が経ちます。残された人たちは苦悩を抱えながら、互いに支え合い、生きてきました。

 私たちは、家族の歩みをカメラで記録してきました。写真には、それぞれが見つめる「あなた」への思いが詰まっていました。

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仙台高裁に入る田村孝行さん。右は健太さんの遺影を持つ妻、弘美さん。裁判で企業防災のあるべき姿を問うたが、控訴は棄却。その後、最高裁で敗訴が確定した=2015年4月22日、仙台市

 「健太、約束します 父母」

 震災から7カ月後。息子の葬儀のときに、あいさつ文を入れた封筒の表に書いた言葉を、宮城県大崎市の田村孝行さん(60)は、いつも自分に問うてきた。

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「健太 約束します 父母」会葬あいさつの封筒には田村孝行さんの決意が込められていた=2014年11月8日、宮城県大崎市

 東日本大震災による津波で、長男の健太さん(当時25)を失った。七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の銀行員。支店長の指示で高さ10メートルの支店屋上に避難したところに、約20メートルの津波が押し寄せた。行員12人が犠牲となり、うち8人はまだ見つかっていない。

 会社の管理下にある従業員の命を守るのは、誰なのか。走って1分のところにある高台にどうして逃げられなかったのか。

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七十七銀行女川支店があった場所(中央奥)から高台までの避難路を改めて確認する田村孝行さん(右)。表情が険しい=2014年11月9日、宮城県女川町

 無念の思いが消えない。安全な社会を作ること、それを伝え続けていくことを、葬儀のあいさつで話し、妻、弘美さん(58)とともに息子に約束した。

 初めて取材したのは、2014年3月11日。支店跡に作った祭壇の前で、「今度自宅に来て、話を聞いてくださいよ」と声をかけられた。口調は穏やかだが、表情は感情を押し殺したように険しかった。その年の11月、初めて自宅でじっくりと話を聞いた。

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会社に行く時、講演活動をする時、常に健太さんのネクタイを身につけていた=2019年1月26日、宮城県大崎市

 健太さんが見つかったのは、震災から半年後。ワイシャツ姿でネクタイピンをつけたままだったという。遺体安置所で名前入りの服を見せてもらったが、弘美さんは認められなかった。「本当に息子なんでしょうか」と警察に聞いた。抱いてあげられなかったことを、今も悔やんでいる。

 銀行の支店で何があったのか。田村さん夫婦は知りたかった。銀行側の家族への対応に、誠実さを感じなかった。12年6月から、支店跡地で津波被害を語る活動を始めていた。街頭での署名運動や、銀行を相手に起こした裁判に無我夢中で、神経が張り詰めていた。

 しかし、いつの頃か、そんな2人の表情がだんだん変わってきた。

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「実際に来てみないとわからない」と兵庫県尼崎市のJR宝塚線脱線事故が起きた現場を訪れた田村孝行さん。持参した花束を供えた=2017年4月22日、兵庫県尼崎市

 2人は、全国へ慰霊の行脚を…

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