尾を引く分断、先送りの事故負担 元日本原電理事の後悔

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聞き手・大谷聡
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日本原子力発電理事・北村俊郎さん

 ――月に1回、帰還困難区域内の自宅に戻って庭木と建物の手入れをしていると聞きました

 家に風を通し、傷んでだめになった庭木をノコで切って倒します。ボランティアの人たちが来てくれて助かっていました。震災前に手入れしてきた庭には数年前、環境省からイノシシ取りのわなを置かせてくれ、と打診がありました。実際にかかっているのを見たのは1回だけですが。

 近所の人は東京で家を買ったり、手入れには戻らなかったり。私のように定期的に一時帰宅するのは少数派になりました。

 きたむら・としろう 1944年、滋賀県生まれ。日本原子力発電で社長室長や理事を務めた。2002年に東京から福島県富岡町に移住。原発事故で避難し、現在は同県須賀川市内で暮らす。

 ――退職後に移住した福島県富岡町で被災されました

 3月11日は家で過ごして、12日の朝、避難しろと放送が流れました。海岸は崖になっていて、自宅から津波は全然見えなかったから、念のため避難させるんだろうとしか思っていなかったのです。早くマイカーで行けって言うもんだから、車に積める物も限られる。位牌(いはい)と、着る物とか。妻とは「2、3日で戻れるだろう」って話していました。

 川内村に着いてテレビを見たら、福島第一原発の爆発の映像が映っていた。これだけのことをしたら日本の原子力は頓挫すると思いました。

 体育館から親戚の家に行き、それから郡山に。転々とし、今に続く避難生活です。

インタビュー特集「東日本大震災を語る」はこちら

東日本大震災から3月11日で10年となります。被災地の復興や支援、福島第1原発事故への対応など、様々な分野で思いを寄せる人たちにインタビューしました。 震災の経験は私たちに何を残したのでしょうか。

 原発のメリットは色々あると思っていたが、住民を避難させるようなことはあってはならないことです。

 でも福島第一原発事故の場合、曜日、時間、気象などの条件は、避難のためには実はベストだったと思います。

 ――勤めてきた日本原子力発電は、原発専業の会社です

 就職するときは、公益的な会社で、夢を持っていました。茨城県東海村福井県敦賀市の原発でも勤務しました。退社後は、業界企業が集まる原子力産業協会にも勤めました。それでこういうことになってしまった。

 原電社員のころ、住民説明会…

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東日本大震災を語る

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