避難所のおばあさんの一言で…映像作家・小森はるかさん

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小峰健二
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 避難所で出会ったおばあさんの一言がなかったら、作り手になっていなかったかもしれない。映像作家の小森はるかさん(31)は、そう考えることがある。

 2011年3月末。東京芸術大学大学院に進むことが決まっていた小森さんは、ボランティアとして東北の被災地に向かった。同じく、学部から大学院に進む同級生の瀬尾夏美さん(32)と一緒に、岩手県宮古市の避難所で支援物資の仕分けを手伝っていた。

拡大する写真・図版小森はるかさん。「小森はるか+瀬尾夏美」のユニットで制作した映像作品などが、水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催中の「3・11とアーティスト:10年目の想像」で展示されている

 そのとき、被災したおばあさんにこう言われた。「カメラを持っているなら、代わりに私の生まれ故郷を撮ってきてほしい。行く手段もないし、自分で行って直接見るのは、とてもつらいから」

 こもり・はるか 1989年、静岡県生まれ。映画美学校フィクション初等科修了。東京芸大大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。画家で作家の瀬尾夏美と共作した「二重のまち/交代地のうたを編む」が各地で公開中。「息の跡」「空に聞く」など、全9作品を集めた特集上映が東京のポレポレ東中野で開催中。

 小森さんは東京芸大や映画美学校で映像制作を学び、自主映画も撮っていた。このときも愛用の小型カメラを持参していたが、カバンの奥にしまったまま取り出せないでいた。「津波で街ごと流された姿やがれきの中で片付けをされている人を見て、撮りたいという気持ちすらも湧きませんでした。報道関係者が撮影するのを見ても心が痛かった」。自分はジャーナリストでもなく、プロの映画製作者でもない。「私は単なる学生で、何者でもない。撮る資格もない」。そんな気持ちがあった。

 しかし、おばあさんの言葉が背中を押した。おばあさんのように被災した場所に行けない人もいるのではないか。その人の代わりに行く役割があるのではないか――。

 初めは撮影と支援を兼ねて1カ月に一度、東北に通っていたが、復興工事が始まった街の急激な変化に追いつけていない感覚を持つようになる。瀬尾さんの提案もあり、被災地をつぶさに記録するため、震災の1年後、岩手県内に移住することを決めた。

 一方で、悲しみを抱えた被災地でどう撮ればいいのかという戸惑いもあった。「壊れた家やがれきが積まれた風景は痛々しく直視できないほどにつらかった。動揺があったのか、当初の映像は手ぶれがひどいものでした」。大学在学中に通った映画美学校でも、フィクション初等科で学んだのみ。記録映画にどんな撮り方があるのかも分からなかった。

 そんな時、佐藤真監督の「阿賀に生きる」(1992年)を見た。新潟水俣病という社会問題を根底に据えつつ、昭和電工の排水で汚染された阿賀野川流域で暮らす住民を活写したドキュメンタリー映画だ。佐藤監督らスタッフが現地に3年間住み込み、地域の人と関係を築きながら撮影を続けたという。「私が被災地域で出会った人も、阿賀の人と同様に『被災者』という固定化されたイメージからはみ出てしまう、おおらかさがあった。被災という社会問題だけではなく、人々の生き方を映像に残していきたいと思うようになりました」

拡大する写真・図版陸前高田市で種苗店を営む男性を取材した映画「息の跡」の一場面(C)2016 KASAMA FILM+KOMORI HARUKA

 小森さんが制作し、のちに劇場公開された「息の跡」(16年)や「空に聞く」(18年)に登場した岩手県陸前高田市の人々とは、被災地で生活するなかで出会った。種苗店を営む男性も、災害FMでラジオパーソナリティーを務める女性も、被災の痛みを抱えながらも、ユーモアや、したたかさを持ち合わせていた。

 「被災の悲しい記憶は隣り合わせにあるけれど、暮らしている人たちの、どうしようもなくおかしい日常や、笑い合っている日々は続いている。それが見えてきたのは、移り住んだことではじめて可能になったのではないでしょうか」

拡大する写真・図版陸前高田市でラジオパーソナリティーを務めた女性に取材した映画「空に聞く」の一場面(C)KOMORI HARUKA

 小森さんは、現在も仙台を拠…

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