身元不明なお6体「遺族の元に…」終わらない執念の捜査

川野由起
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捜査員4人が机を並べる捜査班の部屋。壁には身元不明者の発見場所を記した地図が貼られ、そばの棚には遺体の写真が収められている=仙台市青葉区の宮城県警本部
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 宮城県警本部(仙台市)の地下1階にある窓のない小部屋。4人の捜査員が机を向かい合わせて座ると、もう手狭だ。棚には、東日本大震災で見つかった身元不明遺体の検視データや無数の写真が納まる。

特集企画「会いたい、会わせたい」

東日本大震災から10年。行方不明者はなお2500人を超え、今も家族を捜す人たちがいる。遺体の身元捜査を続ける警察、身元が分かっているのに引き取り手がない遺骨……。「会いたい」「会わせたい」。人々の思いが交錯する。

特集企画「生きる、未来へ」

3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。

 その傍らに、宮城県沿岸部の大きな地図が掲げられている。シールが指し示すのは、不明遺体が見つかった場所だ。特定できれば1枚ずつはがしてきた。

 陸地で見つかったことを示すオレンジ2枚、海での緑4枚――。震災から10年を迎えても、6体の身元が分かっていない。これらを遺族の元に戻すべく、捜査1課の「身元不明・行方不明者捜査班」が地道な作業を続けている。

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地図に貼ってある遺体発見場所のシール。陸地だとオレンジ、海中だと緑にしているという=仙台市青葉区の宮城県警本部

 捜査班が22人態勢で発足したのは、震災から8カ月後の2011年11月。これまでに約560体の身元を特定してきた。

 班長を務める菅原信一検視官(63)は、東日本大震災は遺体の身元が特定しづらい「開放型」の災害だという。

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遺体の身元特定作業について語る捜査班長の菅原信一検視官=仙台市青葉区の宮城県警本部

 乗客名簿がある航空機事故や、建物倒壊などによる犠牲者が相次いだ阪神・淡路大震災の「閉鎖型」と違い、津波で広い範囲に流されてしまうと手がかりそのものが失われてしまう。遺骨が白骨化したり、一部しか見つかっていなかったりと損傷も激しい。

 特定の鍵となるのが、遺体から採取するDNA型による鑑定だ。県警は行方不明者届を受理する際、不明者の親族たちにDNA型採取の協力を依頼。他県の行方不明者の情報も取り寄せ、データベースを作成して型の近い人を絞り込んできた。

 コンピューターがはじき出す候補は1人あたり5~20人ほど。赤の他人でも型が似ていることは珍しくない。しかも、遺体に皮膚や毛髪が残っておらず、地中や海中に長期間あった骨だと、DNA型そのものが変性してしまうこともある。

 そもそも身寄りがなくて届けが出ていない場合もあり、結局は地道な捜査が必要になる。

 「遺骨に名前をかえすこと」。菅原班長は身元特定の作業をこう表現する。名前を取り戻すことで、骨に刻まれたその人の人生が浮かび上がる。「家族にかえしてあげたいという思いでチーム一丸となってやっている」

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捜査班の部屋には、遺体の発見日時や持ち物、死因などをまとめたファイルが並ぶ=仙台市青葉区の宮城県警本部

 不明遺体を特定していく中で編み出した独自の手法もある。

 東日本大震災で県警が収容した遺体は約9500体で、見つかった不明遺体は計約1250体。身元を特定していて地図に落とし込んでいくうちに、遺体の発見場所とその人たちの住所に関連があることが分かった。津波にのみ込まれた人は、その周辺の人たちとともに同じ場所に漂着したと類推できた。

 この地図分析が生きたのが、石巻市南浜町の阿部きうさん(当時99)だ。20年7月、遺族の手に渡った。

 阿部さんの遺体は11年5月、市内の入り江のがれきから見つかっていた。発見場所近くのほかの遺体の身元を調べると、南浜町近辺の人が多いことが分かった。同町でまだ行方が分かっていない人のうち、性別や身体的特徴などから阿部さんが浮上した。

 捜査班は、阿部さんにまつわる家系図を作り上げ、生存している妹とおいのDNA型を鑑定して特定したという。

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阿部きうさんの遺骨は、おいの管野一之さん(右)に引き渡された=2020年7月2日午前10時31分、宮城県石巻市

 遺骨を受け取ったおいの管野一之さん(80)は「感無量だ。ようやく私の胸に抱かれ本人は喜んでいると思う」と迎えた。管野さんの母たゑ子さん(当時97)が眠る寺に遺骨を納めた。

 生前の顔を再現した似顔絵も12年5月から公開してきた。全国で初めて県警のホームページに掲載。100人の似顔絵のうち、25人の身元を特定。県警OBで「鑑識技能伝承官」の安倍秀一さん(71)らが、頭蓋骨(ずがいこつ)から生前の顔を再現する「復顔法」を用いた。

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菅原検視官(左)率いる捜査班には、安部裕樹警部補といった若手も所属している=仙台市青葉区の宮城県警本部

 さらに、岩手県を含む沿岸部の仮設住宅などに出向いて、似顔絵や持ち物を示して話を聞く「情報交換会」も開いた。

 女川町女川浜の平塚真澄さん(当時60)の遺骨が19年4月に親族の元に戻ったのは、この似顔絵がきっかけだった。

 似顔絵を見た親族が「顔が似ている」と情報提供し、この親族を通じてたどり着いた青森県八戸市の異母弟が、平塚さんからの手紙を保管しているのが分かった。封筒の指紋を調べても特定にはつながらなかったものの、捜査員がふと「切手をなめてつけたのでは」と思いつき、切手からDNA型を採ると、ぴったりと一致したという。

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遺体の写真を保管している棚。引き出しには検視した場所を示すシールを貼っている=仙台市青葉区の宮城県警本部

 菅原班長が捜査班を率いるようになった18年4月の時点で、残された身元不明の遺体は10体だった。前任者からは「やれることはやったよ」と引き継ぎを受けた。

 不明遺体が減るに従い、捜査班の人数も縮小。いまのメンバー4人のうち、現役の警察官は30代の警部補のみで、菅原班長を含めた3人は定年退職後に非常勤で再任用されたOBだ。それでも、「初心忘るべからず」との思いで1体1体と向き合ってきた。

 DNA型鑑定を依頼した大学教授から、電話口で「よかったね!」と一言あれば、部屋に喜びの声が広がる。「『やったね』しかない。ようやくたどりついた瞬間だ」

 ただ、10年という歳月が重くのしかかる。

 長い捜査を経て身元を特定した遺骨の引き取り手をたどっても、子どもといった近しい人がすでに亡くなってしまい、遠戚から引き取りを拒まれることもある。

 「誰に引き取ってもらえたらご遺骨も本望か。その思いが今は強い」

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不明者捜索のため、宮城県警の警察官が海岸の砂利を棒で掘り起こして調べていた=2019年9月11日、宮城県南三陸町

 20代のころ、菅原班長は妻と生まれたばかりの長男と3人で、宮城県南三陸町の伊里前駐在所で勤務した経験がある。

 当時住んでいた場所は、津波で跡形もなくなった。結婚式に出席し、弟のようにかわいがっていた10歳ほど年下の知人も亡くなった。

 行方がわからないままの人もいる。「あまりにも知っている人が多すぎて、お参りするにしても、しきれないぐらい」

 沿岸部を訪れると、今でもよく知った顔が浮かんできて、胸が詰まる。班長になったからには恩返しがしたいが、10年が経った今も気持ちは整理できていない。

 震災によって行方が分からなくなった人は21年1月時点で、宮城県内で1200人を超える。70人超とみられる部分遺骨からはDNA型が検出されないものも少なくない。

 捜査班が特定を進める6体には、遺骨や似顔絵、所持品といった手がかりが、わずかだがある。「なんとか遺族の元にかえしてあげたいという思いでいっぱいだ」。菅原班長は前を向く。(川野由起)