国に頼らず 避難も極秘に想定 県都の危機

小手川太朗、関根慎一
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 【福島】10年前の首相と現首相。両者が対峙(たいじ)した2月22日の衆院予算委員会で、菅直人(74)はコロナ禍での危機管理のあり方を問うた。官房長官時代の危機管理に定評があった菅義偉(72)。明快な口調でこう答えた。

 「最悪を想定するのは、危機管理の要諦(ようてい)」

 2011年3月の東京電力福島第一原発事故。原発からほぼ50キロ以上離れた福島市で、「最悪」を想定した準備がひそかに進められていた。

 3月14日の深夜から翌日未明。2号機格納容器の圧力が下がらず、爆発の危機に瀕(ひん)していたその頃。福島市の国道4号復旧工事現場から、作業員数十人がこつぜんと姿を消した。

 「避難してください、撤収してください!」

 現場責任者の建設会社員は、国土交通省の職員から作業員の撤収を指示された。「どういう状況なんですか」と聞くと、「私にも分からない。上からの指示なんです」と繰り返した。

 徹夜で続いた大動脈の復旧工事が、突然の中断。「原発だな」。そう受け止めた社員は工事を中断させ、25台のダンプ運転手や重機オペレーターら30~40人を現場から撤収させた。

 その日の早朝、4号機が水素爆発。季節外れの東寄りの風に乗った放射性雲(プルーム)が福島市に流れ込み、市中心部で夕方、毎時24・24マイクロシーベルト(後の避難基準は同3・8マイクロシーベルト)を観測した。

 メルトダウンの公表が遅れるなど、国や東電の情報発信は迷走。復旧工事は15日に再開したが、報告を受けた福島市の副市長、片平憲市(72)は事態を深刻に受け止めた。「国は表で言っていることと実際の動きが違う。備えが必要だ」

 市長の瀬戸孝則(73)が「私の右腕」と全幅の信頼を寄せていた片平。市幹部数人は「最悪の事態」への備えを始めた。

 片平は「全市民の避難計画の可能性を探る必要があった」。万一の場合、職員が原発から62キロの市庁舎に屋内退避し、避難対応に当たると想定。2カ月前に開庁した庁舎は、高い耐震性気密性があった。

 「避難に10日は掛かる」(幹部)と仮定。その間庁舎に残るのは、被曝(ひばく)の影響を比較的受けにくいとされる中高年の職員約900人と算段した。

 実際、屋内退避に備えて市庁舎の書庫にペットボトル水の備蓄を始めた。計画が漏れ職員や市民が混乱することを恐れ、「計画」は極秘。終業後の夕方に「人目を忍んで運び込んだ」(別の幹部)という。

 市は福島大学副学長、渡辺明(72)から1日2回、放射能拡散予測の提供を受けた。気象学が専門の渡辺。SPEEDIの公表が遅れる中、貴重な情報だった。

 「子どもや高齢者を優先して避難させる」(片平)と想定するのがせいぜいだった。だが、インフラ復旧や避難指示区域からの避難者受け入れ、子らの被曝対策などに追われるうち、原発が最悪の事態に陥る危機は脱し、想定が現実化する事態は避けられた。

 同様に避難指示が出ていなかったいわき市も全市民の避難、郡山市が子どもの避難を極秘で計画した。県内の三大都市は「最悪」に備えようとしていた。瀬戸は今、改めてこう思う。

 「放射能はどこまで飛ぶかわからない。避難や屋内退避、準備しておく必要がある」=敬称略、肩書は当時(小手川太朗、関根慎一)

 「最悪の事態」は回避した福島市。だが事故の影響は長く残り、市民は次々と未知の難題に直面することになる。中でも課題が凝縮した福島市渡利地区の「10年」を追った。

(13日から連載を始める予定です)

原発事故と直後の出来事

◆2011年3月

12日 1号機水素爆発。20キロ圏避難指示

14日 3号機水素爆発

15日 4号機水素爆発。20~30キロ圏屋内退避指示

   福島市で毎時24.24マイクロシーベルト

17日 米国が自国民に80キロ圏避難勧告

◆4月

6日 福島市などで学校が始業

11日 計画的避難区域設定方針。目安は毎時3.8マイクロシーベルト

19日 校庭利用基準(毎時3.8マイクロシーベルト)公表。県内13校園が基準値超

29日 内閣官房参与が「涙の辞任会見」

原発事故の避難計画

原発事故後、国は避難計画の策定範囲を8~10キロ圏から30キロ圏の自治体に広げた。避難先や避難手段、避難ルートなどを盛り込む。策定が義務の30キロ圏内では9割の市町村が策定を終えたが、30キロ圏外の対策は自治体の判断に委ねられ、対応が進んでいない。