東京大空襲で孤児に 大使館から海老名さんに届いた手紙

西村奈緒美
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 76年前の東京大空襲で家族6人を失い、孤児となった作家の海老名香葉子さん(87)のもとに、米国大使館のジョセフ・ヤング臨時代理大使から手紙が届いた。「第2次世界大戦中にお亡くなりになられた方々を厳粛に追悼する機会をいただき、ありがとうございます」。つづられていたのは、感謝の言葉だった。

空襲1945 戦火の記憶

日本が焦土と化した空襲のビジュアル特集です。米軍の無差別爆撃が最も激しくなった1945年を中心に、戦中・戦後の写真群からよみがえる惨禍の記憶を伝えます。

 海老名さんは落語家・初代林家三平さん(故人)の妻で、現在の林家正蔵さん、三平さんの母。戦争体験を著書「うしろの正面だあれ」や講演で語り続けてきた。

 東京の本所(現・墨田区)の生まれ。東京大空襲があった時は、学童疎開で静岡の叔母の家に身を寄せていた。1945年3月10日未明、空襲警報が鳴り響く中、近くの山に登って東京の方角を見ると、ぼおっと赤くなっていた。「どうか家族を助けて下さい」と拝んだが、数日後、訪ねてきた2歳上の兄に「みんな死んじゃった」と告げられた。祖母、両親、2人の兄、弟の計6人が亡くなったことを知った。

 その後は親戚や知人の家を転々としたという海老名さん。中学にはほとんど通えず、時には雑草を食べて空腹を紛らわせた。遺族証明書や罹災(りさい)証明書がどこでもらえるかもわからなかった。今も正式な遺族として認められていないため、「東京都が毎年開く慰霊祭には招待されないんです」と明かす。

 2005年、手弁当で始めたのが「時忘れじの集い」だ。上野に慰霊碑と母子像を建立し、平和を願い続けてきた。参加者は年々増え、1200人を超えたこともあった。

 米国大使館の職員が自宅にやってきたのは、今年の集いに向け、準備に奔走していた3月8日のことだ。手渡された封筒に、ヤング氏から送られた、日本語と英語による2枚の便箋(びんせん)が入っていた。

 手紙は慰霊の活動を続ける海老名さんへのお礼とともに、日米の永続的な友情に触れていた。海老名さんは米国を憎んでいた時期があったが、旧日本軍が奇襲したハワイのパールハーバー(真珠湾)に行き、考えが変わったという。広島の原爆に関する本が並べられていたのを目にし、「加害者も被害者も苦しんでいる」と感じた。

 米国大使館によると、手紙はヤング氏が私信として送ったものだという。海老名さんは「これは多くの戦災孤児に向けて書かれたもの。箱にしまって大事にとっておきます」と話した。

 海老名さんは「東京大空襲を通じて戦争の無残さを語り継いでいきたい」と話す一方、複雑な思いも抱えている。民間の被害者は軍人などと異なり、補償の対象外で、戦災孤児への支援も不十分だ。「国が一言、『苦労をかけましたね』と言ってくれたらどんなに救われることか」と残念そうな表情を見せた。(西村奈緒美)