写真、位牌、母子手帳…返却活動が危機 震災10年

関根和弘
【動画】「10年は区切りではない」震災の思い出の品、返却活動が存続の危機=関根和弘撮影
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 東日本大震災(2011年)の津波などによって流され、がれきの中から見つかった個人の写真や位牌(いはい)などの品々。そんな個人にとって大切なものを、収集・保管する動きが被災各地で広がった。

特集企画「会いたい、会わせたい」

東日本大震災から10年。行方不明者はなお2500人を超え、今も家族を捜す人たちがいる。遺体の身元捜査を続ける警察、身元が分かっているのに引き取り手がない遺骨……。「会いたい」「会わせたい」。人々の思いが交錯する。

特集企画「生きる、未来へ」

3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。

 「思い出の品」とも呼ばれ、地元自治体やボランティアの人たちが返却活動を続けてきたが、資金不足などから終了するケースが出てきた。「こうした品々とようやく向き合える人が増えてきたのに……」と嘆く関係者たち。3月11日であの日から10年。思い出の品々は今も保管場所でじっとたたずんでいる。

 岩手県南東部の陸前高田市。海から約4キロ内陸に入った、かつての市立図書館の事務所に「陸前高田市 思い出の品」がある。中に入ると、写真や木彫りの像、ユニホーム、楽器、トロフィーなどが入ったかごが四方の壁いっぱいに置かれている。

 「一番多いのは写真。プリントシールもありますね。あとは木彫りの七福神。漁師のご家庭が大漁や航行の安全を祈願するために所有していたようです」。施設を運営する一般社団法人三陸アーカイブ減災センター(岩手県釜石市)の代表、秋山真理さんはそう説明する。

 写真は推計で20万~30万枚を収集、8割ほど返却し終えた。残りは約6万9千点だ。物品は約4300点集め、残りは約2700点となっている。

 あの日。市の沿岸部は津波によって壊滅的な被害を受けた。死者・行方不明者は1750人以上。破壊されたまちには、がれきに混じって個人の所有物が散乱していた。

 写真アルバムや位牌、卒業証書、ランドセル、母子手帳……。行方不明者を捜索するなどしていた自衛隊員や消防関係者、警察官らが、それらを見つけては果物のかごなどに入れて集めるようになったという。

 秋山さんは当時、東京で防災コンサルタントをしていたが、ボランティア活動をするために被災地入り。震災から2カ月後のゴールデンウィークのころ、思い出の品の返却に携わるようになった。

 活動の道のりは平坦(へいたん)ではなかった。品々の洗浄や修復は根気のいる作業だ。特に写真の修復は独特な技術や機材が必要だった。

 そのうえ、17年3月末で国の財政支援が終了。市が単独で予算を捻出し、減災センターに委託する形で事業を続けてきたが予算は続かず、この年の11月にいったん終了した。

 それでも秋山さんたちはあきらめず、活動の必要性を訴えた。仙台や東京など開いた返却会には、被災者だけでなく、遺族やふるさとを離れていた家族らも集まってきた。「まだまだ必要としている人がいる」と確信した。

 国は18年9月に予算を再び認め、事業は存続することに。だが、それも今年3月で終わる。減災センターは寄付を募って続けたい意向で、現在市側と協議している。

 ただ、資金繰りなどから活動を終えるところもある。宮城県東松島市では16年、「劣化がひどくなった」として思い出の品の公開を終え、持ち主が見つからなかった写真やランドセル、賞状など約5万点を市内の神社でお焚(た)き上げしてもらったという。

 宮城県気仙沼市も今年2月で返却を終了。写真は市内の美術館で保管し、位牌などは供養と魂抜きをして処分するという。

 秋山さんは言う。「17年に一度活動が途絶えたとき、直前にたくさんの方が足を運んでくれたんですね。でも、来てくれた人の中には『本当は来たくなかったんです。まだ心の踏ん切りがつかなくて。でももう活動が終わると聞いて』と言う方が複数いらっしゃって、とても『見つかってよかった』と声をかけられる状況ではありませんでした。一方で、今年1月には『ようやく見られるようになりました』という声もありました。思い出の品を捜したいと思うタイミングは人それぞれ。10年と期限を区切るのは酷だと思います」(関根和弘)