娘を亡くして気づいた気持ち 被災地に通い続ける夫婦

多知川節子
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 今年も3月11日に、東日本大震災の被災地に立つ香川県高松市の夫婦がいる。結婚して岩手県陸前高田市に移り住んだ娘は、10年前のあの日、津波にのまれて命を絶たれた。夫婦はこのまちへ、もう70回ほど足を運んだ。訪れるたび、娘が縁を結んでくれた多くの人たちと心を通わせている。

【震災特集】会いたい、会わせたい

東日本大震災から10年。行方不明者はなお2500人を超え、今も家族を捜す人たちがいる。遺体の身元捜査を続ける警察、身元が分かっているのに引き取り手がない遺骨……。「会いたい」「会わせたい」。人々の思いが交錯する。

 藤田敏則さん(72)、英美さん(67)の長女、朋さんは震災当時29歳、妊娠4カ月だった。2009年、大学時代に出会った陸前高田市出身の男性と結婚し、社会福祉士として市役所に勤めていた。

 11年3月11日午後。

 車で外出していた朋さんは激しい揺れで市役所に戻り、隣接する市民会館に避難した。ほどなく襲って来た津波に建物ごとのまれた。一緒に逃げた職場の先輩の記憶はここまでだった。

 3月下旬、近くの海で遺体が見つかった。藤田さん夫妻は探し続けた娘と対面し、4月に火葬を終えた。当時住んでいた兵庫県西宮市に戻ると、まるで震災などなかったかのような空気を感じた。

 陸前高田では、娘が仕事で接した高齢者の家族や同僚らが生前の姿を語り、一緒に涙を流してくれた。かけがえのないものを皆が失っていた。声を掛け合うと心が通いあう気がした。

 「陸前高田のため、できることは何でもしたい」

 ふたりは娘が暮らしたまちに通い続けた。5月からは、被災して心にストレスを抱える子どもたちに自由に絵を描いてもらうボランティア活動を始めた。

 陸前高田をはじめ、岩手県沿岸部の保育所などを巡り、子どもたちが描いた約1800枚の絵を集めて展覧会を催した。人形劇団を招いたり、映画の上映会を開いたりもした。

気になった陸前高田の「これから」

 被災地での活動は、1995年の阪神・淡路大震災が原点にあった。当時、西宮の自宅は半壊したが、家族は無事だった。自己表現が心のケアになるという新聞のコラムを目にし、被災地の子どもを支えたいと、当時ギャラリーを営んでいた敏則さんらは絵を描いてもらう活動に取り組んだ。

 それでも、今思えば「自分ごととして心を寄せられていなかった」と感じる。身近に犠牲者がいなかったためか、阪神大震災の起きた1月17日に毎年、神戸市で催される追悼行事には足が向かなかった。

 初めて参加したのは、津波で娘を失った翌年の12年1月17日。「同じように家族を亡くした人とともにありたい」と思った。

 17年秋、老後に備え、ふたりの出身地である香川県に移住した。高松市内の複数のボランティア団体に籍を置き、18年夏の西日本豪雨に見舞われた愛媛県宇和島市岡山県倉敷市真備町などに駆けつけ、民家の泥かきや、汚れた写真の洗浄などを手伝った。

 敏則さんは「スキルも資格もないが、被災者の気持ちはわかる。それだけが原動力。あと何年続けられるかわからないが、体が動くうちはやりたい」と話す。

 いつも娘ならどうしただろうと考え、背中を押してもらってきたと感じている。何かやり残したことはないか。改めて考えた時、陸前高田のこれからのことが気になった。

 高台移転のため、全長3キロものベルトコンベヤーが大量の土砂を運ぶ様子を見てきた。まちの姿は大きく変わった一方で、かさ上げの完了を待てず、転出した住民も少なくないと報じられている。

 まちの将来像は、未来ある地元の子どもたちの手で描いてもらいたい。そんな思いで、中高生を対象にした作文コンクールの実施を昨夏から呼びかけ、副賞や参加賞を用意した。

 3月9日、約4カ月ぶりに陸前高田に入り、10日には作文を応募してくれた生徒たちの学校を巡った。

 11日には今年もお墓と海に花を供え、愛する娘と、顔も見られないまま別れた孫に伝える。

 「会いに来たよ」(多知川節子)