原発事故が奪った夢 忘れないで、私たちはここにいる

寺島笑花
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 東日本大震災原発事故で家を追われ、いまも帰れずにいる人たちがいる。復興庁のまとめでは、福島県から県外へ避難している人は今年2月時点で約2万8千人。山口県内には48人いる。私たちに東日本大震災が終わる日は来ないと思う――。日々の暮らしや夢を一瞬にして奪われた苦しみに、区切りはない。

 阿武町の浅野容子さん(68)と隆造さん(69)夫妻は、東京電力福島第一原発から西に30キロほどの福島県葛尾(かつらお)村に住んでいた。自然が豊かな土地で第二の人生を歩む。2人の夢を実現した場所だった。

 隆造さんは2003年に東京の銀行から福島県内の地銀に転職。葛尾村に1500坪の土地を買い、3年かけて2階建てのログハウスを建てた。06年には容子さんも千葉県松戸市から移り住んだ。井戸を掘って飲み水を確保し、目の前のニワトリが産んだ卵でケーキを焼いた。

 あの日から、穏やかな暮らしが暗転した。

 11年3月11日、容子さんは村内の友人宅で震度5強の揺れに襲われた。けがはなく、夜には勤務先の郡山市から戻った隆造さんと合流した。

 《原発が大変らしい》

 12日、容子さんは沿岸部から葛尾村に避難してきた人に聞いた。当時は放射線についての知識はほとんどなく、手作りの家では危ないと考えた。数日分の着替えを持って、隆造さんと車で郡山市へ向かった。

 重大さに気づいたのは避難所に着いてから。防護服を着た職員から放射能検査を受けた。映画のシーンのようだった。「情報がなく、とにかく怖かった」

「避難者はここにいます」声上げ続ける

 14日夜、村長が全村避難を決めた。

 原発事故の影響がわからず、早く遠くへ避難したかった。避難所の体育館で3日間過ごした後、市内にある隆造さんの独身寮に入った。18日に娘がいる浜松市に向かうため、福島空港から中部国際空港愛知県)へ。空港には春休みに旅行する家族連れが目立った。再び郡山市に戻った後、6月末に容子さんの実家がある下関市の県営住宅に移った。「ぽつんと投げ出されたようだった」。夜も明るい下関の空を見て、葛尾村での暮らしを思った。眠れない日が続いた。

 阿武町には12年から住み、県内の避難移住者と気兼ねない交流も生まれた。この1年は新型コロナの影響で顔を合わせることはほぼなかったが、20人ほどが時々オンラインで近況を語り合う。

 葛尾村に出ていた避難指示は、16年にほぼ解除された。だが、除染作業が行われるのは住宅から20メートルの範囲まで。村の大半を占める山林や、浅野さんのログハウスを囲む森は除染の予定がない。

 自宅は地震での被害は免れ、害獣被害もない。でも放射性物質が降り注いだ。隆造さんは写真を手に目に涙をためた。「変わってしまった」。これまで年1回は村に戻り、自宅の手入れをしてきたが、「もう戻れない」との思いがよぎる。そろそろ次の決断をしなければ、とわかっている。

 最近、原発が話題になることが少なくなったと感じる。政治家は「復興五輪」を「コロナに打ち勝った証し」と言い換える。原発事故がなかったことにされるのではとの危機感もある。

 だから声を上げ続けようと思う。「私たち避難者はここにいます。ここだよって」。突然、バラバラにさせられた村の人たちをいまも思い出す。(寺島笑花)