【ドキュメント動画】あの日、メディアで起きていたこと

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佐藤岳史
【ドキュメンタリー】3.11 あの時、メディアは《前編》
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 東日本大震災は、災害を報じるメディアにとっても「想定外」の連続だった。あのとき、被災地のテレビ局や新聞社で何が起きていたのか。

 2011年3月11日。宮城県を放送エリアとする東日本放送(仙台市)では、報道部編集長だった山口則幸さん(50)はニュース原稿のチェックを終え、一息ついていた。「今日は余裕がありそうだ」。そう思った矢先、フロアに緊急地震速報の音が響いた。

 「来るぞ」「落下注意」。山口さんは叫んだ。午後2時46分。カメラを構えたものの、激しい揺れで、しっかり立っていることはできなかった。

 3分後の49分。岩手、宮城、福島の3県に大津波警報が発せられた。テレビ局では緊急放送が始まった。

 岩手朝日テレビ盛岡市)アナウンサーだった山田理さん(42)は、繰り返し避難を呼びかけた。

 「岩手にはてんでんこの教えがある。真っ先に逃げてください、命が奪われる可能性がありますと思いながら呼びかけました」

 宮古支局(岩手県宮古市)のカメラマンに電話がつながると、そのまま電話中継が始まった。

 「信号機も停電の状態です。街の中は混乱しています」。必死で伝えるカメラマン。20分後、宮古市を津波が襲う。家族の元へ向かったカメラマンは津波に巻き込まれ、けがを負った。

 当時岩手朝日テレビで報道統括デスクだった斉藤恵さん(48)は「本人に安全を確認したうえでの中継だった」としつつ、「安全確保しながら取材するという考えは震災前からあったが、安全が何よりも最優先となったのは震災後。メディアの意識は大きく変わった」。

 一方、東日本放送は1台の中継車を沿岸に向かわせた。「津波警報が出たら、安全な沿岸部の高台から中継すると決めていた。そこに1台出そう、と」(山口さん)。

 向かった先は宮城県七ケ浜町の七ケ浜国際村(標高34メートル)。結局渋滞でたどり着けず、目的地を変えた。この偶然が幸いした。周辺道路は津波で一部が浸水しており、巻き込まれた可能性もあった。今では考えられない判断だった。

 宮城県気仙沼市では、カメラマンの千葉顕一さん(63)が岸壁に行き、津波を防ぐために閉まった水門を撮影した。それまで小さな津波しか経験がなく、地震があれば水門に撮影に行くのがルーティンだった。「『これが津波?』ということが何十回と繰り返されて、あの津波だった」

 記者と電話はつながらない。沿岸に設置した情報カメラは停止。仙台空港のヘリコプターは津波で流された。発生が確実視されていた宮城県沖地震に備え、準備を整えていたつもりだったが、震災はすべてが想定外だった。

 通信手段を確保して報道するという前提が崩れた中での放送。山口さんは振り返る。「我々は目を奪われた状態で放送を続けなければならなかった」

想定外の状況に陥ったのは朝日新聞も同様でした。記事後半では、ドキュメント動画の後編もご覧頂けます

 こうした想定外の状況に陥ったのは、朝日新聞も同様だった。

 朝日新聞は震災10日前の3…

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