第1回燃える気仙沼 街に船が… 山道の先に見えたものは

小宮路勝
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 東日本大震災から10年がたちました。発生直後から現地で取材したフォトグラファーたちは何を思い、ファインダー越しに被災地をどう見つめていたのか。「あの日の写真」を振り返ります。

拡大する写真・図版写真① 津波で船や家屋が押し流された宮城県気仙沼市の市街地=2011年3月12日午前、小宮路勝撮影

 東日本大震災の発生当時は仙台総局駐在だった。休日を自宅で過ごしていると、けたたましい音で緊急地震速報が流れた。

 その直後、経験したことのない激しい揺れが2度にわたって自宅のマンションを大きく揺らした。このまま倒壊するのではないか。あのときの怖さは忘れられない。

 地震が収まり、気づくと割れた食器などが散乱していた。玄関で靴を履いて部屋に戻り、取材用の機材と貴重品を持って総局へ向かった。

 自宅のマンションはコンクリートがはがれ、鉄骨がむき出しになっていた。だが、車から見た仙台の街並みは信号が消えている以外はいつもと大きくは変わらない。

 電車は止まっていた。仙台駅の周辺に集まった多くの人たちは時折小雪が舞う中、寒さに耐えていた。別の場所では古い家屋が倒壊していた。

 仙台市内の取材を終えて総局に戻ると、気仙沼の漁港が炎に包まれていることが分かり、車を走らせ現場に向かった。舗装があちこちで裂けたり、隆起したりしている一般道を約3時間走り、気仙沼に近づく頃には辺りは明るくなっていた。

 通行規制で車は近づけない。安全な場所に車を止めた。この場所にいつ戻れるか分からない。カメラやパソコン、三脚、脚立、衛星電話など持てるものは全て持って、歩いて港に向かった。

 津波で建物は壊れ、がれきに覆われていた。流された車が何重にも積み上がっている。片手で写真を撮りながら進むと、港の付近は漁船やがれきなどで道がふさがれていた。

 近くにいた人に尋ねると、山道を越えた先に火災現場があるという。坂道を登り始めたが、機材が重くて足が動かない。休み休みようやく登り切ると、急に視界が開けた。

 破壊された建物、燃えた車、打ち上げられた何隻もの船。信じられない光景が広がっていた。とてつもない災害が起きていることに改めて気づかされた。

拡大する写真・図版写真② 津波に襲われた宮城県気仙沼市の市街地=2011年3月12日午前、小宮路勝撮影

 陸地の奥まで流されてきた大型船の後ろには白煙がたちこめ、建物の窓からは炎が噴き出していた=写真①。高台に身を寄せ、破壊された街並みをぼうぜんと見下ろす人たちの姿もあった=写真②。何を写せばこの惨状を伝えられたのか? 10年たった今でも考えることがある。

 この状況を少しでも早く伝えようと、何度もシャッターを切った。衛星電話とパソコンをつなぎ、東京本社に写真を送稿した。

 震災後、数日は食料が届かなかった。ある駐車場で避難している家族を取材したとき、「記者さんも食べてないだろう」と、一緒に食事をしないかと誘われた。何度も断り立ち去ろうとすると、ラップに包んだおにぎりをポケットに突っ込んでくれた。震災の現場では取材に関して厳しい言葉を投げかけられたこともあるが、それ以上に多くの優しさにも触れた。(小宮路勝)