震災10年、生きていることの申し訳なさ 川上弘美さん

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寄稿・川上弘美さん(作家)

 二十七年前、「神様」という短いお話を書いた。マンションの隣に越してきた「くま」に誘われ、川まで散歩に行く話である。なにしろくまであるので、川辺で子供にキックをくらったり、人の世界に合わせているつもりにもかかわらず、思わず野性がもれでてしまったりする、そんな話だった。

 書いた当時は、専業主婦として二人の子供を育てており、幼稚園に入ってからも二語文の出なかった息子のことで悩んでいた。専門の医院にも通い、よいと言われることはすべておこなうよう試みていたが、息子は言葉を口にしなかった。お砂場遊びをしていても、息子だけが「ふつうのこども」ではなくて、周囲とまじわれないわたしと息子は、まるで異世界からきた存在のようだった。

 「神様」は、ある日突然思いつき、一時間ほどで書き上げた話なのだが、おそらく当時の息子と自分が、世界からずれた場所にいる、という感覚を、小説の中に解放したものだったのだ。とはいえ、ずれた場所にいるのは、必ずしも不幸なことではない、ということも、ひっそりと主張したかったはずで、ただ、そのようなことを自分が無意識に思っていたということに気がついたのは、後年だったのだが。

 その「神様」を、東日本大震災の一週間後に書き直したものが「神様2011」である。隣の部屋に越してきた「くま」に誘われ、川まで散歩に行くところはまったく同じだが、「2011」の世界は、「あのこと」の後の世界であり、放射性物質が空気の中に飛び散り、人々は防護服をまとい、日々除染がおこなわれているのだ。「福島第一原発の事故」と明記せず、「あのこと」と表現したのは、狭い国土にこれだけ多くの原発が建設されている限り、今後も事故が起こる可能性はいくらでもあると思ったからだった。福島原発の事故は、福島だけのものではなく、わたしたちすべてにふりかかる可能性のあるできごとなのである、と。

 東日本大震災による福島第一原発メルトダウンは、当初どのくらいの範囲に放射性物質を飛散させるか、まったくわかっていなかった。冷却用の電源が失われ、メルトダウンが起こり、ベントがおこなわれ、水素爆発が建屋を吹き飛ばし、原発内部の様子を詳細には知ることができず、ヘリコプターや消防車からの水の投下と放水をおこなうしかなかった、事故後の数日間。当時の政府は「最悪のシナリオ」を想定しており、大震災の翌年に初めて開示されたのだが、それによれば、最悪の場合は東京の住民も移住の対象となる可能性があったという。

〈かわかみ・ひろみ〉1958年生まれ。作品に「蛇を踏む」「センセイの鞄(かばん)」など。東日本大震災(2011年3月)の直後に発表した「神様2011」も話題に。

 当時の自分の感情は、今もありありと覚えている。建屋の水素爆発の映像をテレビで見ながら、「東京もきっとだめだろう……」と、漠然と思っていた。それならば自分はいったい、どうするのだろう。チェルノブイリの人々が土地を離れざるを得なかったのと同じく、東京を離れるしかないのだろうか。もしそうだとしても、生まれ育った土地に、いつか帰りたい。そんなふうに感じながら、地震が起こった次の週に「神様2011」を書いたのである。

 日常は、ある日突然、取り返しようもなく変化してしまうものなのだなあ、というのが、当時いちばん強く感じたことだった。あれから十年。東京に住まうわたしは、結局避難をおこなうこともなく、地震の被害もほとんど受けず、震災の数カ月後には「変化した日常」ではなく、「元と同じ日常」を送るようになる。「神様2011」を書いた震災の一週間後は、自分は原発事故の「当事者」だと思っていた。けれどいつの間にかわたしは「当事者」ではなくなり、「傍観者」となっていたのである。

 震災のことを思うたび、申し…

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