薬師寺の大谷徹奘さん、旧大川小で法要

岡田匠
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 津波が児童74人、教職員10人の命を奪った。あれから10年。奈良・薬師寺大谷徹奘(てつじょう)執事長(57)らが11日、宮城県石巻市の旧大川小学校で追悼法要をした。遺族とともに祈り、亡くなった人たちの死を無駄にしない生き方をしたいと誓った。

 当時のままの校舎が正面に、その右に山の斜面が見えた。亡くなった児童74人のうち34人の遺体が見つかった斜面だ。この辺りで午前8時半すぎ、大谷さんらが白いタオルを地面に敷いて正座し、お経を唱え始めた。

 薬師寺から持ってきた高さ約30センチの地蔵像と、三回忌に作った白木の位牌(いはい)を並べた。地蔵像は、大谷さんの師僧で薬師寺の伽藍(がらん)を復興させた故・高田好胤(こういん)さんがサイパンや硫黄島などをめぐった戦没者の慰霊法要に、欠かさずに抱えるように持っていった仏像だ。

 大谷さんは震災翌年から旧大川小で法要を続け、グラウンドに座りこんでお経を上げてきた。コロナ禍の昨年は秋のお彼岸に校舎に入って読経した。その際、山の斜面で児童34人が重なるように見つかったと遺族から教わった。今年は斜面のそばで初めて祈った。

 大谷さんをはじめ、薬師寺の松久保伽秀(かしゅう)さんや京都・壬生寺(みぶでら)の松浦俊昭(しゅんしょう)さんら僧侶8人が声を合わせ、信者ら約30人が手を合わせた。大谷さんは約1時間にわたり、涙をこらえながらお経を上げた。

 このなかに遺族の紫桃(しとう)隆洋さん(56)の姿があった。5年生だった次女の千聖(ちさと)さん(当時11)を亡くした。震災の翌日、校舎から約1・5キロ離れた堤防ののり面で千聖さんが見つかった。旧大川小を訪れる人たちを案内し、経験を語り継いでいる。大谷さんの法要に参列するのは初めてだ。

 あの朝、学校に行ったら先生の言うことをきちんと聞くんだよと送り出した。地震が起きたときも、学校にいるから安心と思っていた。だが、千聖さんは冷たくなって家に帰ってきた。

 「千聖の命の最期に、言葉さえも、手を握ることさえも、抱きしめることさえもできなかった。そのつらさは10年たっても変わらない」と振り返る。「この10年、千聖は生きたかったと思う、いろんなことをしたかったと思う。その気持ちを考えながら、一日一日を妻と大切に生きてきた」

 今も毎日、仏壇の前で般若心経を唱える。紫桃さんは法要のあと、「奈良から毎年はるばる来て、般若心経を唱えて子どもたちへの思いを届けてくれ、いい供養になる。津波は本当に恐ろしい。そのことを家族で話し合い、二つとない命をどう守るか、もう一度考えてほしい」と呼びかけた。

 千聖さんが生きていれば、大谷さんの三男と同じ年だ。大谷さんは「亡くなった子どもたちは冷たかったろうな、さみしかったろうな、その苦しみを心に刻み、亡くなられた人たちの死を無駄にしない生き方をする。同じ悲しみを二度と繰り返さない。生きている限り、ここに来て、その誓いを伝えたい」と話す。

 午後からは石巻グランドホテル(石巻市)で法要や法話、お写経があった。地元の被災者ら約140人が集まった。地震発生時刻の午後2時46分には、参加者全員で、もくとうした。

 法要後、津軽三味線奏者の吉田兄弟が4曲を披露した。吉田兄弟が昨年、薬師寺の境内でライブ配信をしたとき、「日本の文化、三味線の音を亡くなった人たちに届けてほしい」と大谷さんが声をかけたという。

 吉田兄弟は震災直後、石巻市の避難所で演奏したこともある。兄の良一郎さんは「私たちの人生は、東北の楽器の津軽三味線に助けられてきた。東北に恩返しし、津軽三味線で日本を元気にしたい」と話した。

 大谷さんは12日も旧大川小でお経を上げる。(岡田匠)