「公益」への使命 恒松隆慶と渋沢栄一

小西孝司
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 【島根】世界遺産石見銀山大田市)のある大森の町の一角に、1879(明治12)年創建の井戸神社はある。祭神は、井戸平左衛門。江戸中期、甘藷(かんしょ、サツマイモ)の栽培を奨励し、年貢米を独断で放出して領民を救った代官だ。社殿は1916(大正5)年に移転・再建されたが、その費用を募る寄付帳に、NHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公、渋沢栄一が名を連ねる。

 渋沢は生涯で約500の会社、福祉や医療、教育、災害支援など約600の社会事業にかかわった。後醍醐天皇の行宮のあった船上山(鳥取県琴浦町)の史跡保存会顧問に就いたように、地域の歴史を大切にすることにも理解を示した。

 寄付を呼びかけた「興復会」会長が、大田出身の衆院議員、恒松隆慶(たかよし、1853~1920)だった。恒松は、井戸の贈位を働きかけ、評伝を刊行するほど、領民に尽くした井戸を崇敬した。

 恒松は渋沢と同じく、富農の家に生まれた。青年期自由民権運動に身を投じ、28歳で県議に。農政や町村合併などに力を注いだ。衆院議員に転じ、国会に94件の法案、89件の建議案を提出したとされる。

 特に尽力したのが、鉄道の敷設だった。山陰の経済・文化が栄えないのは交通の不便さが原因だとして、出雲以西の見通しが立っていなかった山陰線の開通のため、鉄道院総裁の後藤新平に山陰への巡視を懇願、実現させた。続いて、山陽・山陰をつなぐ陰陽連絡横断鉄道の実現に心血を注いだ。心臓病のために帰郷したが、医者の制止を聞かずに再び上京。請願委員会で趣旨を説明中に倒れた。

 井戸を研究する大田市文化協会の石賀了(りょう)会長(70)によると、恒松と渋沢の間柄を具体的に示す史料はないようだが、恒松家には、還暦を迎えた恒松に渋沢が贈った直筆の書が残る。『論語』の一節で「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」の文字。ことわざの「好きこそものの上手なれ」に通じるような意味合いだが、「これからも、そのように生きなさいねと言いたかったのでは」と石賀さん。

 「日本資本主義の父」と言われる渋沢だが、重んじたのが『論語』だった。論語を商業道徳として読み直し、行き過ぎた利益至上主義などを、論語の価値観の「仁」「忠恕(ちゅうじょ)」「義」などで抑えようとした。

 恒松も、「公益」への使命感は劣らず強かった。病で倒れた後、心境を「病める身のいのちおしくはおもはねどたゝ國(くに)の為めくすりもちひん」と歌に託して詠んでいる。

 石賀さんは「鉄道敷設のため、土地や私財を提供し、郷土の発展に尽くした。利権や自分のために何かをする、という人ではなかったんです」。大田市では夏になると、遺徳をしのぶ「隆慶(りゅうけい)さんまつり」が開かれるという。(小西孝司)