ソ連兵に命乞いしてくれた父 「終わりか」恐怖、鮮明に

片山健志
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 南樺太(現ロシア・サハリン)からの引き揚げ者らでつくる全国樺太連盟の北海道事務所長、森川利一(としいち)さん(91)は終戦後、旧ソ連の占領下の樺太で、命を奪われそうになる恐怖を体験した一人だ。連盟は3月末に解散するが、記憶は今も鮮やかな像を描き出す。

 1945年8月、15歳の旧制中学3年生だった森川さんと父母の一家3人が暮らしていたのは、南樺太北部の上敷香(かみしすか、レオニードボ)。木材関係の仕事の傍ら、農業で軍に野菜などを納めていた父は兵役を免れていた。8月9日に旧ソ連軍の侵攻を受け、緊急疎開するように声がかかったのは17日だった、と記憶している。

 母を先に送り出すと、父と2人で疎開船が出る大泊(コルサコフ)を目指した。多くの人が同じように南へと歩いていた。

 道すがら、凄惨(せいさん)な現場に立ち会った。夜が更け、寝泊まりをさせてもらおうと空き家を訪ねた。この時期、樺太全域で一斉に疎開が始まり、空き家があちこちにあった。友人の父子と4人で入った家で休んでいると、2階に上がった友人が「森川、だめだ、ここは」と顔色を変えて降りてきた。白装束の夫婦が刺し合って自害している、と説明された。

手には自動小銃を…

 知取(しりとる、マカロフ)という町で足止めされ、海を望む高台の高等女学校で過ごした。ある朝、ソ連の戦車隊が来た。学校前の坂道に数台が山のほうを向いて止まっていた。

 西側の海を見ると、北から南へと漁船が通った。脱出を図る日本人の船だろう。戦車のうち何両かが主砲をぐるっと回転させて、後ろに向けて砲撃した。手前で爆発し、狙われたと気づいて沖へ急ぐ船に、今度は照準を合わせたようだった。ズドーンと激しい音がして水しぶきが上がった。しぶきが消えた後には影も形もなくなっていた。

 結局、知取から引き返すようソ連軍に命じられ、北へ向かう列車に乗った。上敷香では下ろされず、国境付近で橋の修復を10日ほどさせられた後、解放された。上敷香は9月半ばに街ごと焼かれたため、郊外の畑のそばにもう1軒あった家で父と生活を再開した。

 そこへ自動小銃を持った若いソ連兵2人が突然現れたのは、夕飯の支度をしていた時だった。父を土間に座らせ、1人は見張りをした。もう1人は、立ったままの森川さんの胸に銃口を突きつけた。「チャスイ、ダワイ」。腕時計をよこせ、ということらしいと、手首を示す動作でわかった。母に託していたので、持っていない、と手を振って伝えた。隠していると思ったのか、安全装置をガチャガチャとさせながら、さらに強く銃口を押しつけてくる。

 金品を略奪に来たソ連兵に殺された人の話をあちこちで聞いていた。自分も終わりか、と思ったら頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。その時、父がとっさに土間に手をついて土下座した。家にあるものは全部持っていっていいから、息子の命は助けてくれ、と泣きながら懇願した。彼らもわかってくれたのか、毛布などを少しだけ持って帰っていった。

 森川さん父子はその後、豊原(ユジノサハリンスク)や真岡(ホルムスク)などに移り住みながら同じ造材会社で働き、48年7月に函館に引き揚げた。しばらくして母と再会を果たし、札幌で親子3人の生活に戻ることができた。母は76歳、父は80歳で旅立った。

 あの時、父が顔面蒼白(そうはく)だったことを覚えているが、父に言わせれば自分も真っ青だったという。森川さんは「父は多くを語る人ではなかったが、助けてくれたあのときのことはいまだに忘れられない」と振り返った。(片山健志)