米朝が語る戦時中の思い 「滅びかけてゐる上方ばなし」

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落語研究家・小澤紘司
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 戦後、滅びかけていた上方落語を「救世主」としてよみがえらせたのは、人間国宝の故・桂米朝さんでした。命日の3月19日、50年来の親交があった落語研究家・小澤紘司さんが、その道のりを貴重な資料でひもとくコラム「米朝物がたり」を公開します。

 桂米朝さんが、戦時中のこんな思い出を話してくれたのを覚えています。

戦時中に燃えた芸への思い

 「昭和19(1944)年11月、19歳の誕生日のすぐ後に入営通知の黄色い紙が届いた。これが届くと半日以上家を空ける時には、軍の承認が必要だった。しかし友人とこっそり米を持って汽車に乗り、泊まりがけで京都の顔見世(かおみせ)に行った。当時、旅館で泊まる時は必ず米を持参しなければならなかった。市村羽左衛門と中村梅玉との顔合わせ『二月堂』を観(み)たかったんです」

 「年が明けて入隊日も決まったとき、これが最後と中座で実川延若の『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』の『筍(たけのこ)掘り』を観た。そのあと花月で五代目笑福亭松鶴に挨拶(あいさつ)して、珍しい『牛の丸薬』を演(や)ってもらった。もうこれで思い残すことはないと入隊したんです」

 五代目松鶴は、寄席文化研究家の正岡容(いるる)に紹介されていました。松鶴とのつながりをもとに、終戦の翌46年に地元の兵庫県姫路市で姫路中学の同級生だった有本隆さんとともに落語会を開催します。

20歳で新聞に寄稿

 この年の7月に発行された「演藝新聞」に、当時20歳だった米朝さんが本名の中川清の名でこう寄稿しています。

米朝物がたり

後半は、20歳の米朝さんが寄稿した演藝新聞の記事を写真付きで紹介します。

 「滅びかけてゐる上方ばなし…

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