コロナ禍の今こそ桂米朝 必聴はミステリアスなあの一席
落語家の桂米朝さんが89歳で亡くなって、3月19日でまる6年。コロナ下で芸能文化が危機に瀕(ひん)するいまこそ、米朝さんに学ぶべきことがあるのではないか。
初めてお会いしたのは2007年6月のこと。朝日放送ラジオの番組とタイアップした夕刊連載「米朝口まかせ」の担当者になり、ドキドキしながらあいさつした。
「よろしゅう、おたの申します」
はんなりした関西弁で気さくに頭を下げられて、緊張がいっぺんに和らいだ。
それから、毎月のように収録に立ち会って6年あまり。80歳を過ぎていて冗舌に語ることはなかったが、聞き手で演芸通の市川寿憲さんとのやりとりが芸談におよぶと、瞳を輝かせた。
「あの目で見つめられたらね、なんか面白い話をしなきゃって、こっちは必死になるんです」
漫才ブームの火付け役の一人で知られるテレビ・ラジオプロデューサーの澤田隆治さんは、米朝さんの存在感の大きさをそう話していた。
紡ぎ出す言葉にも重みがあった。
技巧のみで優れた芸はない
米朝語録①
「技巧のみでは絶対に優れた芸はあり得ない。若い人でいくら天才的技量があっても人間として未熟である間は一定以上の域には達しない」
落語家として長い道のりを歩んだ末の言葉、ではない。弱冠21歳。会社勤めをしていた1947年、本名の中川清で社内報にそう論じた。戦時中、寄席文化研究家正岡容(いるる)の弟子となった米朝さんの規格外の大きさがすでにうかがえる。
この年に落語家となり、のちに「四天王」と呼ばれる六代目笑福亭松鶴、三代目桂春団治、五代目桂文枝と切磋琢磨(せっさたくま)した。その歩みは、滅びかけていた上方落語の再興の道のりそのものでもある。
上方落語で初の人間国宝となったのは96年。2009年には東西落語界で初めて文化勲章を受章した。肩書は重々しくなっても何も変わらず、文化勲章が決まった後もこう語っていた。
記事後半では、他にもある米朝さんの名言や、記者がいちおしの一席をご紹介します
米朝語録②…