「節目とは年月ではなく…」福島へ移住した保健師の葛藤

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西堀岳路
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 「道で倒れている人がいて見て見ぬふりはできないのと同じ」。6年前、そう言って埼玉県越生町役場の保健師大沢貴志さん(43)は、東日本大震災東京電力福島第一原発事故の被災地、福島県大熊町の職員になった。今も町民のほとんどの約1万人が町外避難者。避難生活を続ける人たちの心と体の健康を守るため「震災10年」も関係なく、悲しみや苦しみと向き合う。(西堀岳路)

「10年たった今も…」

 大熊町内には第一原発の敷地の南側半分があり、水素爆発した3基の原子炉はいずれも大熊側。全町民が避難を強いられた。

 事故から間もない2011年5月から約2カ月間、大沢さんは応援職員として福島県会津若松市へ仮移転した大熊町役場へ派遣された。先の見えない不安、家や仕事、地域社会を一挙に失ったストレスに苦しむ人たちの間を大熊の保健師たちと手分けして回った。避難先は県内各地に分散しており、車の走行距離は派遣期間中1万キロに達した。

 越生へ戻った後も、少ない人手で苦闘する保健師たちの様子は伝わってきた。有給休暇をとって応援に行くなどし続けて15年に転職したが、「初めて大熊へ来た時も10年たった今も、ほぼ同じ仕事内容が続いている」と話す。

 健康状態が心配な人を中心に訪問し、支援策を一緒に考える。町民約2千人にした健康診断では、9割の人の血糖値や血圧に異常があった。日々の農作業を失った高齢者、なかなか定職に就けない若者ら、総じて運動不足が顕著という。避難した当初に差別された経験がトラウマとなり、「原発避難者と知られたくない」と、引きこもりがちな人も年齢を問わずいる。

 子育て世帯を中心に避難先での暮らしに落ち着く人と、経済的、精神的に立ち直れない人たちとに二極化しているという。「『復興』というと、みんな頑張らなきゃいけない響きがあるけど、したくてもできない人だっているんです」

 避難先で酒に依存し、やせて…

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