北海道で一番小さな村から世界一めざして エースが引退

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笠井正基
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 春は別れの季節でもある。ウィンターシーズンを終えた距離スキー男子の日本のエースが、現役引退を選んだ。北京五輪まで、あと1年。「北海道で一番小さな村」で育ち、戦い抜いた34歳の重い決断だった。

 「オレが、ヨシダだぁ」

 「オレが、ヨシダだぁ」

 吉田圭伸(自衛隊)との出会いは鮮烈だった。2005年2月8日、群馬・片品村であった全国高校総体スキーの距離15キロ(フリー)。北海道・おといねっぷ美術工芸のエースは、1位でゴールすると、力を誇示するかのように自らの名前を何度も叫び散らした。いがぐり頭に真っ赤な鉢巻き。冬季競技を初めて取材したときで、この強烈な存在に面食らったのを覚えている。

 叫んだのには理由がある。前年は3冠に輝いたものの、高校最後のインターハイでは2日前の10キロ(クラシカル)で2位。得意な走法で敗れ、3冠を逃した悔しさを吐き出していた。

 類いまれなスタミナと、背中で引っ張るリーダーシップ。直後の3月にあった世界ジュニア選手権の10キロ(フリー)で銀メダルに輝き、日本のクロカン界を背負うと期待される。大学時代は結果を残せなかったものの、社会人になって世界の猛者たちと戦えるまでに力をつけてきた。

 初めて世界選手権に出場した11年のオスロ大会。距離スキーが盛んな地で15キロ(クラシカル)で12位と健闘し、リレーでは過去最高の6位。大観衆から喝采を浴びた。

 2年後、ノルウェー南西部のベルゲンでバスに乗っていた時のことだ。初老の男性に声をかけられた。

 「日本のヨシダはアグレッシブだな」。女子のエース、石田正子JR北海道)のことかと思って「イシダ?」と聞き返すと、「ノー、ヨシダ!」。果敢な滑りは本場のファンに認められていた。

 だが、初めて出場した五輪では世界との差を思い知らされる。14年ソチ大会。個人種目の出場資格はクリアできず、出られたのはリレーのみ。春が近づき、ざくざくとした重い雪面で第1走者から苦しみ、2走だった吉田も思うように滑れない。その後、周回遅れになると判定され、第4走者は走ることすらできず、記録なしの最下位に沈んだ。

 「エースを任された以上、力不足。きょうほど、力のなさを恨む日はない」。自責の念を繰り返し、大泣きした。

 北海道北部に位置する、雪深い音威子府村で育ち、小学2年生から距離スキーに取り組んだ。かつては「国鉄の街」と言われ、甘皮ごとひいた色黒の「音威子府そば」で知られる自治体だ。

 人口減が進む中、村はスポーツで街おこしをしようと、距離スキーの全国大会を1983年からスタート。いまでは照明もあって、夕暮れまで練習できる。そんな恵まれた環境で、吉田は腕を磨き、中学生で全国制覇。村の人々の思いも受け止め、力に変える。村から初めてオリンピアンになった誇りは、胸から消えたことはない。

 「ねっぷ魂」。彼がよく口にする造語には、あきらめずに世界をめざす思いを込めてきた。この文言をレーシングスーツに縫い付けて滑ったこともある。

 故郷の魅力を尋ねると、目を輝かせて、こう説明してくれた。「帰れば当たり前に声をかけてくれて、その声援に応えるのが当たり前。何もないからこそ、いろんな思いが詰まっている。ふらっと帰りたくなる場所です」

 不器用なほど、一つのことに集中するタイプだった。

 「やればできると信じて。世界一になれるんだと常に思っている」。夢をかなえるため競技生活を優先してきた。毎朝、脈拍を測り、正午きっかりに昼食、午後6時には夕食。家族が増えてもリズムを変えない。父親として負担をかけたことへの負い目は強く感じている。その思いは18年平昌五輪で初戦を終えたあと、涙とともにあふれ出た。

 「いろんな迷惑をかけている家族を連れて来られたのがうれしくてしかたない。感謝をやっと返せたのかなと。こどもにはしっかり見とけよ、と。いつ見られるか分からないから、オヤジがオリンピックで走るレースは」。妻の洋子さん、双子のこどもら4人の前で力走した2月11日を忘れていない。

 今月25日、自身の公式ブロ…

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