震災10年に考えた、死者に寄り添う意味 佐伯啓思さん

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異論のススメ・スペシャル

 東日本大震災から10年。一方で、現実の生活の上に目線をやれば、「復興」の2文字がその先に浮かび上がる。「復興」の現状についてはまだしも議論できよう。しかし、他方では、「復興」などという言葉ではとうてい表現しえない体験の記憶が、決して脱色されることもなく被災者のこころの内に巣くっているのであろう。10年という時間の経過などまったく意味をもたない惨事のリアリティーが、「時」の「間」という時間の経過を消滅させる。あの「体験」は、常に「今」という「時」にそのまま刺さり続けているであろう。そこに時の「間」というものが果たしてあるだろうか。

 身内や知人の命を一瞬にして奪われた当事者のこころの傷は、被災者ではない者の安易な想像を受け付けるものではないとしても、それでも、他者のこころをも深く揺さぶる。津波によって子供が行方不明になった父親が60歳近くで潜水士の資格を取り、海中に潜るという映像をテレビでやっていたが、この父親の心境は共感してあまりあるものがあろう。

さえき・けいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「近代の虚妄」など。思想誌「ひらく」の監修も務める。

 父親は、少しでも水にのまれた娘の近くにゆきたいと思い、また、その最後の気持ちにどこか寄り添いたいという思いがあるのだろう。そしてその心境に多くの人が共感するのは、何かある普遍的なこころの動きをそこにみるからであろう。近親者や親しい知人の突然で理不尽な死に直面したとき、確かに人はその「最後の気持ちに寄り添いたい」と思う。想像上とはいえ、その最後の状態に自らを運び、その気持ちに少しでも近づきたいと思うのであろう。

 洋上のはるかかなた南方の戦…

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