至るところに聖徳太子 1400年、奈良に紡がれる信仰
聖徳太子ほど多くの伝説をもつ偉人はいないだろう。太子を観音の化身と仰ぐ太子信仰の広まりとともに、さまざまな太子像が全国各地につくられた。今年は太子の1400回忌。奈良県内に残る太子像を通して、太子の生涯をたどる。
6世紀、この国の中心は奈良・飛鳥にあった。574年、用明天皇を父に、蘇我一族の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を母に、太子が生まれた。厩戸(うまやど)の前だった。
2歳のとき、東を向いて合唱し、南無仏と唱えたとの伝承が残る。その姿を表したのが国源寺観音堂(橿原市)の「南無仏太子像」だ。神武天皇陵に近い住宅街にあり、ふだんは非公開。地元・大久保町自治会の人たちが管理している。
この太子像は上半身が裸で、ふっくらしている。頭部の内側にある墨書銘から、鎌倉後期の1302年の作とされる。つくられた年代が明らかで、国内に現存する南無仏太子像では最古という。
14歳のころには、豪族の物部氏と蘇我氏の争いが続いていた。仏教の受け入れに反対した物部守屋に対し、蘇我馬子は積極的だった。馬子についた太子は合戦の地に向かう途中、戦勝祈願した。毘沙門天があらわれ、この戦に勝利したと伝わる。太子は、信ずべし貴ぶべき山として、この地を「信貴山(しぎさん)」と名付けたという。
信貴山の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)(平群町)には、馬にまたがり、横笛を吹く「聖徳太子騎乗像」がある。よろいに身を包んだ出陣前の姿だ。つくったのは彫刻家の北村西望さん。長崎市の平和公園にある平和祈念像を手がけたことで知られている。
16歳のとき、父の用明天皇が床に伏した。太子は日夜看病し、香炉を捧げて祈った。一心に病気平癒を願う太子像は「孝養像」と呼ばれる。その一つが金峯山寺(きんぷせんじ)(吉野町)にまつられている。少年の髪形の角髪(みずら)を結い、目尻の上がった表情は、きりっとしている。
修験道の聖地である金峯山寺に、なぜ、太子像が伝わっているのか。
金峯山寺の文化財主任の池田淳さんによると、鎌倉時代の1272年、太子を信仰していた叡尊(えいそん)らが吉野で布教した。真言律宗の総本山の西大寺(奈良市)を復興した僧侶だ。実は、この孝養像のなかに経典が納められ、そこに叡尊の弟子の名前が記されていた。池田さんは「この孝養像は、叡尊らが吉野で布教したことを残すためにつくられたのだろう」とみる。
593年、推古天皇が即位し、太子は摂政になった。仏教を中心とした国づくりを進めた。飛鳥から離れた斑鳩の地に斑鳩宮をつくり、黒駒という名前の馬に乗って飛鳥に通ったとされる。冠位十二階や十七条憲法を定め、小野妹子を遣隋使として派遣した。推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)などの経典を説き、注釈書を記した。法隆寺や四天王寺を開いた。
40歳のころの太子には「飢人伝説(きじんでんせつ)」が残る。舞台となるのは達磨(だるま)寺(王寺町)だ。太子の飼い犬だったと言い伝えられる雪丸の墓もある。
613年、この付近を通りかかった太子の前に、飢えた人が現れた。太子は食べ物を与え、衣服をかけて助けたが、飢人は亡くなった。太子は墓をつくり、葬った。しばらくして墓を開けると、遺体はなく、衣服が棺の上にたたんで置いてあった。この飢人は、禅宗の始祖・達磨大師だったと考えられるようになった。
この墓の上に達磨寺がたつと伝わる。本堂の下から古墳時代後期の円墳がみつかっている。本尊の木造聖徳太子坐像(ざぞう)(国重要文化財)は、この飢人伝説をもとに鎌倉時代につくられた。
621年12月、太子の母が亡くなった。翌22年1月、太子と妻が病に倒れた。2月21日に妻が息を引き取り、翌22日に太子が逝去した。49歳だった。疫病とも言われている。
日本書紀や聖徳太子伝暦(でんりゃく)、それぞれの寺の伝承などをもとにまとめたが、太子の生涯には諸説ある。
太子像に詳しい石川知彦・龍谷大龍谷ミュージアム副館長(学芸員)は「太子は日本における仏法の開祖として、仏教の開祖である釈迦(しゃか)になぞらえられてきた。これほど多くの祖師像がつくられた人物はいない」と話している。
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聖徳太子1400年遠忌法要を朝デジで生配信します
法隆寺は4月3~5日、聖徳太子1400回忌の法要を執り行う。この法要では、朝日新聞デジタルが新型コロナウイルス感染拡大を防止する目的で法隆寺に協力。4月3日~5日の法要の様子を、朝日新聞デジタルに開設する専用ページにて動画でライブ配信する。五重塔や金堂を背景に、西院伽藍(がらん)大講堂前で執り行われる勤行や舞楽の様子を、会場外からでもパソコンやスマートフォンを使って見ることができる。(ライブ配信に使用する電波の状況により、画像が乱れたり配信が停止したりすることがあります。あらかじめご了承ください)(渡辺元史、清水謙司)
4月3日午後0時半ごろ、行列が東院伽藍(がらん)を出発。太子七歳像と南無仏舎利を大講堂へ移す。法要では中宮寺(斑鳩町)や斑鳩寺(兵庫県太子町)などゆかりの寺の僧が読経する。
4日午後1時ごろ、大講堂の前で法要。東大寺や興福寺、薬師寺など奈良の大寺院の僧が読経する。
5日午後1時ごろ、大講堂の前で法要。法隆寺の僧らが読経する。法要後、行列を組み、太子七歳像と南無仏舎利を東院伽藍に戻す。行列後の舞台で、ダウン症の書家として知られる金澤翔子さんが揮毫(きごう)する。
いずれも西院伽藍の参拝状況によって入場規制がある。その場合、大宝蔵院、東院伽藍の参拝は無料。問い合わせは法隆寺(0745・75・2555)。
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