特攻機桜花、慰霊祭30年超「後継ぎいないが死ぬまで」

小島弘之
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 太平洋戦争下で秘密裏に訓練が行われた特攻機「桜花」。生まれ育った茨城県鹿嶋市で「桜花奉賛会」を設立し、30年近く慰霊祭を続けてきた。若くして亡くなった特攻隊員や、南方の島で戦死した父を思う。

 1941年に生まれ、その2年後、父に赤紙が届いた。父は工兵として激戦地パプアニューギニアに出征し、22歳で戦死。父の記憶はないが、若い特攻隊員たちの姿を覚えている。

 実家近くにあった海軍航空隊神之池(ごうのいけ)基地では、敗色が濃くなった44年秋ごろから桜花の訓練が始まった。桜花は1・2トンの爆弾を搭載し、敵艦近くで母機から切り離されて体当たり攻撃をする。着陸機能はなく、「人間爆弾」と呼ばれた。

 訓練中の隊員が基地近くの民家に泊まりに来ることがあり、郡司家にも広島と岡山出身の10代の隊員3人が来ていた。母と子だけだった郡司家の農作業を手伝ってくれた。

 終戦後、郡司さんは農業などを続けながら県遺族連合会員になった。遺骨収集帰還事業に参加し、80年代には、パプアニューギニアに4度足を運んだ。

 うっそうとしたジャングルは、昼間でも夜のように暗かった。「乳飲み子の俺を残していったけど、心配するなよ」。遺骨が戻らぬままの父に報告した。

 91年春、自宅近くの住友金属(当時)の敷地内にある桜花の掩体壕(えんたいごう)が取り壊される、との話を聞いた。空襲から航空機を守るコンクリート製の建物だ。桜花の記憶を残すべきだ、とすぐさま住金に保存するよう要望書を提出。公園の一部として保存され、実物大レプリカの設置も決まった。

 同時期に郡司さんは桜花奉賛会を設立した。93年に慰霊祭を始め、多い年は元隊員ら100人が集まった。だが、高齢化で一昨年の参加者は1人。昨年はコロナ禍で中止になった。

 亡くなった若者たちがふびんでならない――。この一心で続けてきたが、会の後継者はいない。10年前に前立腺がんを患い、その後も複数の病と向き合う日々だ。会が残ればと願いながら、今は最期までやり通すことだけを考えている。(小島弘之)