「校閲の神様」生まれにくい時代 校正と校閲の間で

校閲センター・田島恵介
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 どの世界にも「神様」と称される人たちがいますが、かつて「校正の神様」と呼ばれた人もいました。

 かの永井荷風が全幅の信頼を寄せた神代種亮(こうじろたねすけ)、岩波書店初代校正課長の西島九州男(くすお)、朝日新聞や文芸春秋で校正を担った加藤康司(やすし)……。

 彼らの著作をひもとくたび、同じ仕事に携わる者として襟を正したくなります。たとえば神代は、校正に厳格だった森鷗外の作品にひそむ数々の誤りを正したといいます。

 ところで、そもそも「校正」と「校閲」はどう違うのでしょうか。

 「校」は「比べる」という意味なので、「校正」は原稿などの元資料と印刷物を照合する作業が中心です。一方、「閲」は「内容を調べる」という意味で、「校閲」となると、データや事実関係など中身にまで立ち入っての点検も含まれます。

 書籍の校閲を手がける牟田都子(さとこ)さんは、「まずは中身の点検よりも『校正』が最優先。最低でもそれだけはおろそかにしたくない」との思いから、自らを「校正者」と名乗っています。

 インターネットがなかった30年以上前までは、新聞も書籍も、活版印刷による誤植や、ことばの誤記・誤用の「校正」が主でした。しかし、パソコン1台で情報収集が可能な昨今では、むしろ「閲」に重きが置かれ、いかに効率よく正誤を判断できるかが重視される傾向にあります。

 牟田さんは「誰でも容易に調べられる環境が整った現代は、校閲者全体のレベルが底上げされ、神様と呼ばれるほどの傑出した人物が生まれにくくなったのでは」と話します。

 一字一句を追う地道な作業。それ自体は、昔も今も変わりません。「校閲の神様」には遠く及ばずとも、ことばの力を信じて、これからも努力を重ねていきます。(校閲センター・田島恵介)