のろし跡は語る 古代の国家防衛システム見えてきた? 

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編集委員・中村俊介
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 7世紀後半、古代日本は未曽有の事態に見舞われた。朝鮮半島・白村江(はくそんこう)での大敗北である。国家存亡の危機を受け、大和政権は総力を挙げて巨大な防衛ラインを西日本に急造する。このほど奈良で「のろし」跡が確認され、その一端を語り始めた。

 当時、朝鮮半島は争乱の渦中にあった。隣の大国・唐と手を組んだ新羅の侵攻で、日本と親交の深かった百済は壊滅。『日本書紀』によれば663年、百済救援に向かった日本軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ去り、救援どころか自らが攻められかねないはめに陥った。

 慌てた中央政権は北部九州から瀬戸内、近畿にかけて長大な防衛線を突貫工事で築く。戦闘拠点の古代山城とともに各地に設置されたのが、情報伝達の要となるのろし台だ。対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)(のろし)を置いた――。天智紀は、そう記す。

 都のあった飛鳥を守るため、現在の奈良県大阪府の境にあたる生駒山地の一角に高安城を築くなど、近畿一円に防衛網が張り巡らされた。ただ、その実態は謎が多い。ところがこのほど、それに連なるのろし跡らしい遺構が、奈良県高取町の佐田タカヤマ遺跡で確認されたのだ。

 標高約150メートル、見通しのよい丘陵上。煙突のように掘り込まれて深さは少なくとも2・7メートルに及び、すり鉢状の底には灰がたまっていた。隣には建物跡もあった。

 出土土器や他の遺構との時期的な前後関係、飛鳥京を背後に控えた立地から、町教育委員会は白村江敗戦に絡む国内初ののろし台跡と判断。隣接する建物は「のろしの管理者が駐屯した詰め所では」との見方だ。

 今も昔も戦いでは最新情報が…

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