「うっせぇわ」考 中原中也も心託した「っ」の起爆力

有料会員記事

編集委員・吉田純子
[PR]

記者コラム「多事奏論」 吉田純子

 ユーチューブの波間で、誰かが「うっせーわ」と叫んでいる。いや、歌っている。

 「うっ」とのみこんだ鬱屈(うっくつ)が、「せー」とオクターブ上で弾(はじ)ける。この「うっ」と「せー」のケンカ腰の激しい応酬が、暴れ神輿(みこし)の喧噪(けんそう)のようにきこえてくる。さながら祭りなきコロナの時代のバーチャル神輿か。Adoという10代の少女が歌う、「うっせぇわ」という曲だそうだ。5カ月で1億人もの「観客」が集ったという。

 似たような音楽は、いくつも聴いたことがある。ゴジラのテーマ、バリのケチャ、ラベルの「ボレロ」。同じ音型を執拗(しつよう)に反復することで、陶酔と熱狂を引き寄せる。こうした音楽は、国も民族も時代も超え、原初的な身体の衝動と結びつく。

 「うっせー」の「っ」の起爆力は、中原中也の「汚れっちまった悲しみに」をも連想させる。反発、迷い、自己陶酔、諦め、等々。白黒つけられぬあまたの感情を中原は「っ」に充塡(じゅうてん)し、「ち」と吐き捨て、青臭いままの心を世界にぶん投げる。

 日本語だけでなく、ドイツ語の「z(ツ)」という子音も無数のメッセージを託される。ドイツ歌曲の第一人者、メゾソプラノの白井光子さんがシューマンを歌うとき、痛みを意味する「Schmerz(シュメルツ)」の語尾の「z」は、ひゅっと吹き去る疾風のような摩擦音になる。心という意味の「Herz(ヘルツ)」が「恋人」の隠喩となるとき、「z」はのどの奥に甘く転がされ、耳に届かぬほどのかすかな吐息となる。

 音楽ではない日常の会話の中…

この記事は有料会員記事有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。