第1回逃走したら脅威 揺れたあの日、動物実験施設の15日間

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太田匡彦
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 実験動物は、医薬品などを通じてだれにとっても身近なはずなのに、ふだんは光があたらない存在だ。東日本大震災に襲われた時、被災地・仙台の動物実験施設ではなにが起きていたのか。動物たちの被害を最小限にとどめたい――。そんな思いで職員らが奮闘した東北大学動物実験施設の15日間を、関係者の証言をもとに再現。3回にわたって報告する。稀有(けう)な経験からくみとれる教訓とは。

 2011年3月11日。JR仙台駅から車で15分ほどの場所に立つ東北大学大学院医学系研究科付属動物実験施設(仙台市青葉区)には、マウスとラットを中心にウサギ、イヌ、ブタなど8種類計2万6560匹の実験動物たちがいた。

 施設長の笠井憲雪(のりゆき)教授(肩書は当時)は、仙台駅をはさんで5キロほど離れた場所にある宮城県獣医師会(同市宮城野区)で会議に臨んでいた。午後2時46分。大きな、長い揺れを感じた。「恐怖を感じた。地震の多い仙台だが、机の下に潜ったのは後にも先にもこの時だけ」。笠井さんはそう振り返る。

 実験動物たちの日々の世話を担当している主任臨床検査技師の末田輝子(すえたてるこ)さんは、中央棟(地上7階、地下1階)にいる動物の見回りが終わり、専用の予防衣から普段着に着替えたところだった。少し離れた場所にある医学部研究棟3号館の最上階(12階)にある臨床分室の見回りに行こうと、更衣室から出た瞬間、揺れに襲われた。

 外に出て、見上げた。1969年に竣工(しゅんこう)した建物は、倒壊すると思えるほど全体が激しく揺れていた。「動物たちのことが心配で心配で。1秒でも早く12階に駆け上がり、みんなの無事を確認したかった。でも揺れがあまりにも大きく、避難してくる人の波に逆らって12階に上ることは、許されないと思った」

 余震が続くなか、3号館が揺れる様子を見守ることしかできなかった。中に入るのをあきらめ、出勤していた28人全員の安否確認にあたった。幸い人的被害はなく、施設長の笠井さんに職員の無事を報告できた。

 一方、笠井さんはバスと徒歩で混乱する市街地を抜け、1時間ほどかけて戻ってきていた。「この時点で最も重要なのは、動物を逃がさないことだった。自分の安全を守るのも難しい中だったが、すべての扉が閉まっているかどうか確認を急いでもらった」

施設外に逃がした場合、法律は?

 飼育しているマウス約2万4千匹のおよそ8割は、遺伝子組み換え動物だ。もし施設の外へと逃げ出せば、自然界において、生物多様性などの観点から脅威となる。遺伝子組み換え動物の使用などを規制するカルタヘナ法に抵触する可能性もある。

 また、胃がんなどの原因になるヘリコバクター・ピロリ菌、肺炎などにつながるクリプトコッカス菌や肺炎球菌食中毒などを起こす黄色ブドウ球菌などに感染させたマウス266匹、ラット24匹もいた。細菌やウイルスに感染した動物は、人やほかの動物に感染を広めるリスクがある。感染症法や家畜伝染病予防法により、施設の外へ逃がさない措置をとることなどが義務づけられている。

 日が傾き始めたころ、余震が減ってきたのを見はからい、建物外に避難していた末田さんら飼育担当の職員は、施設内に散った。

 動物たちがいる部屋は基本的に、施設外への「逸走」を防ぐため、三重の防御策がとられている。「一次バリア」は、動物が入れられているケージ。「二次バリア」は飼育室の扉。「三次バリア」は飼育室の前室の扉だ。

 末田さんらが施設内に入ると、中はすべて停電していた。懐中電灯をかき集めつつ、点検して回った。

 用心深く、扉ごしに各部屋のなかをのぞき込む。一部の部屋ではケージを置く飼育棚が倒れるなどし、部屋の中に動物が逃げ出していたが、扉はすべて閉鎖されていた。

東北大では、1978年の宮城県沖地震の際、飼育棚55台が転倒。逃げ出した動物の個体識別ができなくなり、計1943匹を安楽死せざるを得なかったという経験をしていました。また、東日本大震災の当日に発生した直接的な被害にも迫ります。

 細菌やウイルスに感染させた…

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連載実験動物の15日間(全3回)

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