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 1964年の東京五輪。男子陸上1万メートルの決勝で、大観衆を沸かせたセイロン(現スリランカ)代表選手がいた。最下位ながら最後まで走りきった姿は人々を感動させ、小学校の国語の教科書でも取り上げられた。あれから約半世紀。選手の孫(29)が、群馬県渋川市で介護福祉士として働いている。異国の地になじめず、一度はスリランカに帰ろうとしたが、最後まであきらめなかった祖父の姿に支えられた。

 「たった一人で三周 びりで完走」「勝者も敗者も 偉大だった」

 当時の朝日新聞にはこんな見出しが躍る。

 「67」をつけたカルナナンダ選手(当時28)は周回遅れとなり、他の選手のゴール後、1人で3周した。最初はあきれたように見ていた7万人の観衆だが、脇腹を押さえながら懸命に走る姿に吸い寄せられ、最後は優勝したかのような万雷の拍手と歓声でゴールに迎えた。

日本の教科書にも

 71、74年度版の小学4年の国語の教科書(光村図書)にも「ゼッケン67」という題名で紹介された。物語はカルナナンダ選手の言葉で結ばれている。「国には、小さなむすめがひとりいる。そのむすめが大きくなったら、おとうさんは、東京オリンピック大会で、負けても最後までがんばって走ったと、教えてやるんだ」

 カルナナンダ選手は74年に母国の湖に転落して亡くなったが、娘のネルムさん(56)は孫のオーシャディーさんに、東京五輪でのできごとや父との思い出を繰り返し話した。亡くなる前年には、日本で陸上のコーチとして働きたいと、就職先を探していたという。

日本になじめず「死んじゃう」

 ネルムさんから話を聞いて日本に興味を持ったオーシャディーさんはコロンボ大学を卒業後、日本の学校で学びたいと考え、2016年10月に来日した。まずは日本語を習得しようと、前橋市の日本語学校に通った。1年半で卒業したが、日本語はさほど上達せず、食べ物も文化も違う日本になじめなかった。大学時代の友人のSNSをのぞくと、国連や国の役所、教師として活躍。結婚して子育てをしている友人もいた。「みんなが先に進む中、自分だけが取り残されている」と孤独に感じた。

 「このままじゃストレスで死んじゃう。もう帰らせて」。ネルムさんに泣きながら電話すると、祖父の言葉を伝えられた。

 「負けてもいいから、何かを始…

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