「原発50キロ圏の避難」 立案者に聞く極秘計画の全て

聞き手・関根慎一
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 10年前、国家戦略相として東京電力福島第一原発の事故に対処した玄葉光一郎衆院議員(福島3区)。政権内で「最悪シナリオ」の必要性を唱え、原発から半径50キロ圏の避難計画作りに着手していた。朝日新聞の取材に当時の秘密計画の顚末(てんまつ)を明かした。

 ――2011年3月12日の政府原子力災害対策本部会議で「最悪シナリオを作るべきだ」と指摘しました。

 「電源車のプラグが合わずに電源がつながらない。日本一の専門家であるはずの原子力安全委員長が『爆発はありません』と発言した数時間後、1号機が水素爆発。考えられないことが次から次へと起こった」

 「避難指示は20キロまでだったが、米軍は原発80キロ圏の立ち入りを禁じた。これからどういうことが起こりうるのか。専門家に聞いて把握した上、立てられる対策を早めに講じておく必要があると考えた」

 ――最悪の場合、東京都を含む原発半径250キロ圏が避難対象になると試算した近藤駿介原子力委員長作成の「不測事態シナリオの素描」が知られています。

 「実は3月15日、近藤氏を大臣室に呼び、『最悪でどんな事態になりうるのか』『避難指示は20キロのままでいいのか』と尋ねた。4号機の燃料プールが一番リスクが大きいとのことだった」

 「翌16日に試算が示された。4号機のプールから水がなくなれば作業員が近づけなくなるほど線量が上がり、東日本の広域に被害が広がるとの結果だった。17日未明、プールに水があることが分かり、当面は20キロ指示で問題ない状況になったが、爆発のあった4号機の上部には約1500本の燃料があった。余震も続き、いつプールが崩れて水がなくなるかわからない状況が続いた。20キロ指示では備えが十分とは言い切れなかった」

 ――政権内で避難指示の直接の担当ではないが、どう動いたのですか。

 「官邸は20キロの避難対応で手いっぱいだった。私は避難対応のラインからは外れていたが、地元なので、自分がやるしかないと。各省から国家戦略室に出向していた中堅幹部に指示し、50キロの避難計画で動いた」

 ――どういう検討をしたのですか。

 「まず50キロ圏の人口を約17万世帯、53万人と割り出した。移動手段と受け入れ先の確保、移動のためのガソリンが必要になる。商用バスのほか自衛隊や警察、消防の協力もいる。全国の空き公営住宅や公務員住宅を探す必要も出てくるだろうと」

 「当時、原発事故を恐れてタンクローリー運転手が県内になかなか入らず、ガソリン不足に陥っていた。かなり無理をして、ガソリンを郡山のインターチェンジまで運んだ。戦略室のスタッフと手分けして各市町村長らに電話して、郡山までガソリンを取りに来てもらった」

 ――移動手段や避難先は確保できたのですか。

 「そこまで詰められなかった。ただ4号機プールがやられたら現に50キロの避難は必要だった。やれることをやるしかなかった」

 ――なぜ、対外秘だったのですか。

 「パニックになる。今振り返っても当時は公表できない。現実化した場合はどう混乱を回避しながら避難してもらうか、公表の文案も考えていた。『物資の不足が長期間に及ぶため』や『感受性の強い子どもに万全を期すため』など」

 ――地元への連絡は?

 「佐藤雄平知事だけに伝えた。知事は『50キロになったら福島がなくなる』と」

 ――原発の再稼働が進むが、今の備えはどうですか。

 「30キロ以遠で対策を講じないのはダメだと思う。ただ現実問題、備えられるか。原発を動かすことで得られる利益より、事故のあった時のリスクの方がはるかに大きいと分かったのが、今回の原発事故だった」

 ――政権対応を振り返って反省点は。

 「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の予測は信頼できるものではなかったかもしれないが、参考までにと、もっと早く開示すれば良かった。私は存在すら知らなかったが、知っていればもっと強く言うことができたかもしれない」(聞き手・関根慎一)

 げんば・こういちろう 1964年5月、福島県田村市生まれ。87年、上智大法学部卒、松下政経塾に入塾。91年、県議選初当選、自民党に所属。93年衆院選旧福島2区から無所属で出馬し初当選。以降連続9期。2010年、菅直人政権で初入閣。震災時は国家戦略相兼民主党政調会長。11年、野田内閣で外相。現立憲民主党副代表。妻の父は佐藤栄佐久元知事。