第3回違う肌の色、刺さる視線「毎日が絶望だった」子ども時代

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藤崎麻里、座小田英史
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 親元での養育環境が整わず、乳児院児童養護施設で暮らす子どもたちのなかには、親が外国人という子も少なくありません。いまは俳優やミュージシャンとして活躍する矢野デイビットさん(40)もそんな一人でした。言葉や食文化の違い、そして何より自分に向けられる視線に苦しみながらも、長い時間をかけて自分の「アイデンティティー」を見つけた半生を語ってくれました。

 デイビットさんの父は日本の建築家。仕事で赴いたアフリカのガーナで母に出会い、次男のデイビットさんを含む3人の兄弟が生まれた。父はガーナで骨をうずめる覚悟で暮らしていたというが、治安の悪さを理由に、デイビットさんが6歳のときに日本に渡ることになった。

 それが家族の転換点になった。今から30年ほど前のことだ。母は日本になじめずにストレスをためてしまい、家族は一緒に暮らせなくなった。3人の兄弟は児童相談所を経て、都内の児童養護施設に預けられた。

「毎日が絶望だった」

 施設には3歳から18歳までの男の子100人以上が暮らしていた。

 当時の施設長は、担当の職員にこう言った。

 「ほかの子と共通するのは親に守られないことと、社会の壁があること。さらにこの子たちは文化や差別の壁がある。そのことを知った上で関わってください」

 当時の日本で、外国にルーツのある子どもはまれだった。3人はそれまで、母が作ったガーナ料理ばかり食べてきた。だから施設の食卓に並ぶこんにゃくや納豆、ひじきといった和食は食べたことがなかった。デイビットさんにはどうしても食べられない日もあった。

 施設内の学校では、教師が一対一で教えるなど、施設側も心を砕いた。でもデイビットさんにとっては「毎日が絶望だった」。

 なにより嫌だったのは、一歩施設を出たときに向けられる視線だった。とくに大人たちからの視線。「ここにいないはずの者がいる、というような。そこに恐怖がはいる感じで、不愉快で怖かった」

 施設の外に出たくなかった。みんなで東京ディズニーランドに行くときも、視線が嫌でデイビットさんは参加しなかった。

教師は「たたかいなさい」

 小学生のとき、同級生たちに…

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