新史料、謎の当主は山陰からの養子?宗像大社の大宮司家

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今井邦彦
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 1587年に九州を平定した豊臣秀吉に、宗像(むなかた)大社(福岡県宗像市)の大宮司家・宗像氏の当主と認められながら、どんな人物かは謎だった「宗像才鶴(さいかく)」が、山陰地方の武家からの養子だった可能性を示す書状が熊本県多良木(たらぎ)町の子孫の家から見つかったと20日、同町が発表した。才鶴は秀吉が武家の当主と認めた唯一の女性だったとする説が注目されていたが、この発見で再び議論が活発化しそうだ。

 書状は熊本藩主・細川家の家臣だった宗像家に伝わる古文書から見つかった。中国地方を支配する毛利氏の家臣で山陰を拠点とした益田元祥(もとよし)が、妻の父で上司でもある吉川(きっかわ)元春と、義兄の吉川元長に「宗像氏の家督相続についてご意見をいただき、感謝します。詳しい返事は吉川家家臣に申し入れます」と伝える内容。6月13日の日付があり、年は書かれていないが、1586年3月に宗像氏当主の宗像氏貞が急死し、11月に吉川元春も死去しているため、同年と推定できる。

 益田氏の史料によると、元祥の次男・景祥(かげよし)は宗像氏の養子となったが、1595年に益田氏の後継ぎだった兄が急死したため、実家に戻ったという。一方、宗像大社に伝わる文書にも益田氏から迎えた養子が実家に帰った記述があったが、その時期は宗像氏貞が死去するより前の1580年とされていた。今回の書状は、宗像氏貞の死後、益田氏が宗像氏の家督相続に関与していることを示しており、益田氏からの養子が宗像氏の家督を継いだとする説を補強しそうだ。

 宗像家の古文書からは一昨年…

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