逃げて良かったのか 双葉病院元スタッフ @茨城

小手川太朗
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 「あの時、逃げて良かったのだろうか」。茨城県ひたちなか市作業療法士、今井憲夫さん(41)は10年が過ぎた今も答えが見つからない。

 福島県南相馬市で生まれ育った。双葉町の双葉高校を卒業後、東京の専門学校に通い、作業療法士の資格を取った。26歳で福島に戻り、働き始めたのが、350床を備え、地域最大の精神科病院「双葉病院」(大熊町)だった。

 病院には認知症統合失調症アルコール依存症など、様々な治療を受ける患者が入院していた。今井さんは軽症の患者に退院へ向けたリハビリを指導していた。

 10年前の3月11日は、作業療法室で事務作業をしていた。突然、建物がバウンドするような縦揺れが長く続いた。作業療法室には、患者たちが避難してきた。

 病棟屋上の貯水槽が壊れ、あふれた水が病棟の階段から滝のように流れたが、幸いにもけが人は出なかった。看護師の指示で、目が届くように患者らを病棟の1カ所に集めた。

 翌朝になると、町中をパトカーが走り、異様な雰囲気を感じた。双葉病院は東京電力福島第一原発から4・5キロ離れている。早朝に避難指示が出たため、午前7時ごろ、比較的元気で歩ける約20人を連れ、約800メートル離れた町役場に歩いた。しかし、待っていても避難用のバスが来る気配がなく、諦めて病院に戻った。

 昼すぎ、自衛隊が大型バス5台で病院に迎えに来た。とても患者全員が乗れる台数ではない。看護師に「歩ける患者を判別してくれ」と指示され、今井さんらはバスでの長距離移動に耐えられる比較的軽症の患者を探した。

 正門前に停車中のバスに、患者209人と今井さんらスタッフほぼ全員も乗った。6時間かけて県中部の避難所に着き、翌朝、患者らはいわき市の系列病院に運ばれた。第一陣は全員無事だった。

 一方、病院に残った重症患者ら129人には院長が付き添った。しかし、県や県警、自衛隊の連携が乱れ、放射線量にも救出が拒まれ、全員の救助が終わったのは発生から5日後の16日だった。その上、避難先が決まらず長時間の避難を強いられ、結果的に計約50人が命を落とした。

 重症患者を病院に残したのは、避難は一時的なものだとして、無理に動かして病状を悪化させることを懸念した病院側の判断だった。だが、今井さんは自責の念に駆られる。「患者がバスに乗れる、乗れないの選別をしたのは自分なんです。原発が爆発すると分かっていれば、もっと別の方法もあったかもしれない」と声を絞り出した。

 いま、茨城県小美玉市介護施設で働く。事故から数年間は自身のあの判断を責めるばかりだった。しかし、ここ数年は、もし次に災害が起きたら自分は何が出来るのかと考えるようになった。

 施設の避難計画を考える委員会には毎月出席し、地震や台風などの災害時の行動を話し合う。「起こらない『だろう』はだめ。あらゆることを想定して、細部まで突き詰めて計画を立てないといけないんです」と訴える。(小手川太朗)