駒野剛の多事奏論 電力会社が学ぶべき「黒四」の精神

有料会員記事

(編集委員)
[PR]

 「この映画は 敗戦の焼あとから 国土を復興し 文明をきずいてゆく 日本人たちの 勇気の記録である」。こう始まるのは、黒部川第四発電所建設の苦闘を描いた巨編「黒部の太陽」である。

 秘境、黒部峡谷に巨大ダムを築き、豊富な水量で大電力を生み出し、大阪市の半分の電力量を賄おうと勇断したのが関西電力の初代社長、太田垣士郎(おおたがきしろう)だ。

 死後、交流のあった人たちの回想などをまとめた「太田垣士郎氏の追憶」という本がある。彼を含め、当時の電力人らが、社会や産業の信頼に応えようとする使命感が非常に強かったことが読み取れる。

 黒四のプランは戦前からあった。しかし膨大なコンクリートや設備をどうやって運び入れるか、資金をどう確保するか。解決すべき課題は山積みだった。だが、太田垣は「7割成功の見通しがあれば、企業家は勇断をもって実行しなければ、事業はできるものではない」と着工を決断する。

 戦後の関電は発電施設が老朽化し、燃料不足で停電が日常茶飯事で顧客の信頼に応えられなかった。そんな時、日本銀行の法王と呼ばれた一万田尚登(いちまだひさと)総裁が訪れる。

 備蓄の石炭を燃やして訪問中の停電を避けようとの意見もあったが、「この石炭はダイヤモンドに等しい。カネもできない。かまわんから(電気を)切って切って切りまくれ」と太田垣は命じた。案の定、一万田を接待中、停電が頻発。「関西は聞きしに勝る」と驚かせ、「これでは産業はどうにもこうにもならなくなる。命にかけて電気を増やさねば」と太田垣は訴えた。

 工事は長野県側から北アルプ…

この記事は有料会員記事です。残り913文字有料会員になると続きをお読みいただけます。