第2回辺野古埋め立て「60年代の米軍案」 元防衛官僚の証言
日米両政府が1996年に電撃合意した米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還。ただ、様々な思惑に揺さぶられ、当初想定した通りには運びませんでした。25年後も終わっていない問題の源流に何があったのか。返還合意当時、防衛庁防衛局長として、米側との折衝にあたった秋山昌広・元防衛事務次官(80)が振り返りました。
【連載ページはこちら】証言 動かぬ25年 普天間返還合意(全13回)
なぜ、普天間は動かないのか。これからどこへ向かうのか。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の電撃的な返還合意から25年。節目の今年、ワシントン、東京、沖縄にいる朝日新聞記者たちが、日米沖の政治家や官僚、識者や普天間周辺で暮らす人たちに取材しました。
――1995年9月、沖縄県で米兵による少女暴行事件が起きました。
「事件後、大田昌秀知事が米軍基地を継続使用するための手続き(代理署名)を拒否すると表明しました。当時、私は、日米外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)のため、米国にいましたが、『これはえらいことになった』と思いました。帰国後、宝珠山昇・防衛施設庁長官が『知事を説得してこい』と沖縄に派遣されました。しかし、面会できませんでした」
――当時の2プラス2では事件を受けて、日米地位協定の運用見直しを確認しました。
「当初、米国は『協定の改定は難しいが、思い切った運用の改善をする。それで何とか収められないか』との意向でした。しかし、大田知事は在沖縄米軍基地の整理・縮小という姿勢をはっきり打ち出してきました。当時の防衛庁としても、守屋武昌防衛政策課長をはじめ、『これは地位協定の話ではない。基地の問題だ』という認識でした」
――同年11月、SACO(日米特別行動委員会)が設置されました。
「米側の対応相手だったジョセフ・ナイ国防次官補に電話して『基地の整理・統合・縮小のための会議を立ち上げて、日米で集中的にやらないとだめだと思う。地位協定の見直しでは収まらない』と伝えました。電話は日本時間の深夜で、向こうは昼。ナイ国防次官補は『これから(クリントン)大統領と食事するから相談してくる』と。数時間後に『(SACOを)つくろう』と連絡してきました。タイミング良く提案でき、先方もトップに了解を取ってくれました」
――当初から普天間飛行場の返還が念頭にあったのですか。
「いいえ。SACO設置後、日米の事務方で協議しましたが、私の頭にはありませんでした。普天間については沖縄から要望が出ていました。96年2月に米カリフォルニア州サンタモニカであった橋本龍太郎首相とクリントン大統領の会談を前に、首相に本気で言いました。『首相がお願いしても実現しないから、言わない方がいいです』と」
秋山昌広(あきやま・まさひろ)
1940年生まれ。東京大学法学部卒業後、1964年に大蔵省(当時)入省。大臣官房審議官を経て防衛庁(同)に移り、防衛局長、事務次官などを歴任。退官後は東京財団理事長を務めた。現在は「安全保障外交政策研究会」代表。
――それでも首脳会談で、橋本氏は「普天間」という具体名を挙げました。
「それを聞いて『そうか、言…
【10/25まで】すべての有料記事が読み放題!秋トクキャンペーン実施中!詳しくはこちら