母は兄抱き身を投げた 水俣病と闘った家族、私が伝える
逃れるように故郷を離れ、たどり着いた地で、母は死のうとした。背負わされた病の辛苦と差別。それでも生きることを選び、立ち向かった。そんな母を知る人が少なくなった今、話せるのは私しかいない――。一人残った娘は、水俣病に翻弄(ほんろう)された家族の歴史を語り始めた。
命がけの抗議、環境庁で倒れた母
「お役人にこの苦しさがわかるかーっ」「どんだけ差別した、人間と人間の仲も裂いていったでしょうが」
1974(昭和49)年12月、仲村妙子さんは環境庁(当時)にいた。中学生だった長男の昭一さんを水俣病と認定するよう行政に求めたが棄却され、反論のため大阪から上京。積年の思いを官僚にぶつけた。
その席上で、妙子さん自身も水俣病の症状であるけいれんに襲われ、全身をぶるぶると震わせて倒れた。その場で見守っていた昭一さんと、小学生だった次女の夏田美智子さん(55)は慌てなかった。自宅でも数え切れないほどけいれんを見てきたから。小さな体で母にしがみつけば、はね飛ばされるほどの発作を。
ここまで命がけで抗議しないと、患者と認められないのか。水俣病が憎い――。美智子さんは思った。
妙子さんは1939(昭和14)年、熊本県水俣市の漁師の家に生まれた。水俣病を起こした原因企業チッソの工場はほど近い。幼い頃からめまいや手足のしびれに苦しんだ。
59年に実家近くの建設会社で働いていた夫と結婚。60年5月に生まれた長女は目が見えず、昼夜を問わず泣いた。思い詰めて長女の首に手をかけ、我に返って手を離すと、長女は自分の胸にしがみついてきた。この出来事は妙子さんの脳裏に刻まれた。
長女は61年3月、オギャーンという声を残して絶命した。生後10カ月足らず。水俣病の公式確認から5年ほど経った頃だった。
「奇病」とささやく地域の声 母は病院の5階から…
工場排水が原因であることがほぼ特定されていながら、チッソが認めなかった時代。「奇病」とささやく地域の声から逃れ、家族は大阪へ出た。しかし、夫もけいれんなどの症状が悪化し、話すことも立つこともできなくなった。入院先の大阪府内の病院で62年1月、壁をかきむしって苦しんだ末、事切れた。柔道で鍛えたたくましい体は、最後は骨と皮だけになっていた。
妙子さんは幼い昭一さんを抱え、病院の5階から身を投げた。地上のテントにひっかかり、死ななかった。この時、生き抜くことを決めた。
水俣へ帰郷して親戚の漁を手伝ったが、体の不調で思うに任せない。「金が欲しさにや」との近所の言葉が刺さった。いたたまれず、再び大阪へ出た。
暮らしぶりは貧しかった。妙…