移設容認の意味「政府はわからなかった」 稲嶺恵一氏

那覇総局長・木村司
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 なぜ、普天間は動かないのか。米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の電撃的な返還合意から25年。自民党政権との協調関係を築きながら、8年にわたって沖縄県知事を務めた稲嶺恵一さん(87)に聞いた。辺野古移設を模索しながら沖縄県民の支持を得た背景にあったものとは。

 普天間が全く動いていないという状況は、想像もしていませんでした。普天間返還のためもっとできたことはあったのかと問われても、私の力ではあれ以上できませんでした。力及ばず、申し訳ない思いです。

 25年というのは一つの歴史です。国際情勢一つとっても全く違う状況が生まれ、時代は大きく変わりました。普天間返還は、本当の意味で解決したい、という日本本土と沖縄の人たちの善意から出発したものでした。それが今のように膠着(こうちゃく)している。非常に悲しく、複雑な気持ちです。

 この25年、沖縄県民は一貫して、6割以上が辺野古移設反対なんですね。辺野古移設を条件付きで容認した私が知事選で2度、勝利したというのも、それが前提にあるんです。

 私は辺野古移設を容認しましたが、軍民共用空港にすることや、固定化を避けるための使用期間をつけることで、県民の財産につながる条件をつけました。こうしたものをトータルで県民が考え、悩みながら判断したのが、私に対する信任でした。

 これが何を意味するのかということを、日本政府はわかってくれていませんでした。私が示した条件は、1999年の閣議決定でも軍民共用を念頭に整備を図ること、使用期限についても国際情勢の変化に対応していく条件で米側と協議することが盛り込まれましたが、その後、消えてしまいました。

 選挙で辺野古移設ノーの民意が示された状態で、辺野古移設が進められています。同じ移設が進むにしても、様々な諸条件を勘案しながらやむを得ずイエスということで進められるものと、ノーを突きつけているなかで進められるものでは、県民の心に残すものが違います。

 かつて、本土の財界の方から言われた言葉があります。

 「沖縄がどんなに強く要望しても、物事は進みません。政府が動く前提にあるのは、国民の意識です。沖縄問題を動かしていくためには、国民のコンセンサスが必要です」

 この言葉がいつまでも、心に残っています。(那覇総局長・木村司)

 いなみね・けいいち 1933年生まれ。父が創業した石油販売会社の会長や沖縄県経営者協会長を歴任。98年から2期8年、沖縄県知事を務めた。自公政権に支えられ、条件つきで辺野古移設を容認したが、2006年に日米が現計画に変更。対立を残したまま退任した。在任中は九州・沖縄サミットが開かれ、本土復帰後初めて沖縄を訪問した米大統領のビル・クリントン氏を迎え、「平和の礎」などを案内した。