普天間、元防衛局長が見た米の思惑 電撃合意の舞台裏

相原亮
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 日米両政府が1996年に電撃合意した米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の返還は、様々な思惑に揺さぶられ、当初想定した通りには運ばなかった。普天間固定化の25年の源流に何があったのか。返還合意当時、防衛庁防衛局長として、米側との折衝にあたった秋山昌広・元防衛次官(80)が振り返った。

 95年に沖縄県で米兵による少女暴行事件が起きました。当時、日米外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)のため、米国にいましたが、「これはえらいことになった」と思いました。

 米国は当初、「協定の改定は難しいが、思い切った運用の改善をする。それで何とか収められないか」との意向でした。しかし、沖縄県大田昌秀知事は在沖縄米軍基地の整理・縮小という姿勢をはっきり打ち出してきました。防衛庁としても、「これは基地の問題だ」という認識でした。

 「5年ないし7年以内」の返還で日米が合意できた背景には、95~96年にかけて起きた台湾海峡危機がありました。米国の意識が中国、台湾へと向き、沖縄の米軍基地の存在意義も変わったのではないでしょうか。沖縄を今後も安定的に使用するためには、普天間を返還しなければいけないという発想があったのだと思います。

 橋本龍太郎首相は普天間の代替施設について、沖縄県に了解を取るうえで、「情勢の変化があれば撤去できる」という点を非常に強く意識していました。しかし、日米の事務方の協議では、米側から名護市辺野古沖に巨大な埋め立て空港を造るという案を示されたことがありました。結局は今も、海兵隊が考えていたような案になってしまいました。

 普天間返還は沖縄県にとって大歓迎ですが、代替施設を沖縄に確保したいという米側の意向には大田知事も結局、最後まで「イエス」と言いませんでした。根っこには、新たな米軍基地が沖縄にできることへの強い抵抗感があった。

 ここまで政府、県の双方が裁判に繰り返し訴える現状では、移設は難しいのではないでしょうか。当時は、橋本首相をはじめ、政治家の沖縄に対する思いは格別でした。他にも小渕恵三首相、梶山静六官房長官ら、沖縄の立場を代弁する人が、政治家にも何人もいたが、今はいなくなりましたね。

(肩書はいずれも当時)(相原亮)

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 あきやま・まさひろ 1940年生まれ。東京大学法学部卒業後、1964年に大蔵省(当時)入省。大臣官房審議官を経て防衛庁(同)に移り、防衛局長、事務次官などを歴任。退官後は東京財団理事長を務めた。現在は「安全保障外交政策研究会」代表。