第4回基地の教師と政治家を経て 絶えぬ性犯罪、政府への怒り

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聞き手=国吉美香

拡大する写真・図版証言 動かぬ25年 普天間返還合意④

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 米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の返還合意が動き出すきっかけは、1995年9月に発生した米兵による少女暴行事件です。当時、沖縄県の副知事だったのが東門美津子さん(78)。米軍基地内で日本語教師を20年、基地のまちの市長を8年間務めた東門さんが語る「動かぬ問題」とは。

 ――意外に思った一面からおうかがいしたいのですが。東門さんは副知事に就任する前、米軍基地で働かれていたんですね。

 「私の夢は国際交流の現場で活躍することでした。沖縄で大学を出た後、米国に留学して、沖縄に帰ってから20年間、基地の中の学校で米国の子どもたち相手に日本語教師をしていました」

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なぜ、普天間は動かないのか。これからどこへ向かうのか。米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の電撃的な返還合意から25年。節目の今年、ワシントン、東京、沖縄にいる朝日新聞記者たちが、日米沖の政治家や官僚、識者や普天間周辺で暮らす人たちに取材しました。

 ――毎日米軍基地に通っていたんですか。

 「自宅はもちろん基地の外なので、朝起きて支度をして、基地内に入ります。基地内に軍人の家族が通う学校がありますので、そこで米国人の同僚たちと仕事をする毎日でした」

 ――教え子や家族との関係はどのようなものなんですか。

 「教え子たちは今では海外で議員や外交官として活躍する子もいて、とっても誇らしいです。当時、家族との交流もありました。同じ人間として学ぶものは多いし、文化や考えなどシェアしたいものはいっぱいあるわけです。沖縄を知ってもらいたいし、沖縄の気持ちも知ってもらいたい。私には2人の娘がいますが、私の子どもたちも米国の文化にはよく触れて育ちました。米国では一般的な『イースター(復活祭)』とかハロウィーンとかを私の家でやったり、米国人の家におじゃましたりしてやったりしました」

拡大する写真・図版東門美津子さんが主に普天間飛行場返還にかかわったのは

東門美津子(とうもん・みつこ)

1942年沖縄生まれ。琉球大卒業後、米オハイオ大大学院に留学。在沖米軍基地内で軍人家族らが通う学校「クバサキ・ハイスクール」に日本語教師として約20年間勤務。94~98年、大田昌秀県政で副知事。2000~05年、沖縄初の女性国会議員として衆院議員。06~14年は沖縄初の女性市長として、嘉手納基地の地元で沖縄市長を務めた。

 ――そうした経験をお持ちの東門さんが、大田昌秀知事のもとで副知事になられたんですね。その後は、沖縄初の女性国会議員、初の沖縄市長と。

 「副知事になったのは51歳のときです。それまで政治も行政も素人でした。沖縄では私の前任である尚(しょう)弘子さんが初めて女性の副知事となり、地元紙では全国的にも珍しい女性編集局長が誕生するなど、女性の活躍がめざましい時期でした」

 「副知事として特に支えられたのは、95年の事件のときにも真っ先に声をあげた、沖縄の女性たちの存在です。県内外、国外へと行動し発信する高里鈴代さんらに出会い、私にできることがあるならばとやれるだけのことをやってきたつもりです」

《 1995年9月、米兵3人による少女暴行事件が発生。元婦人相談員で、那覇市議だった高里鈴代さんら女性たちが抗議の声を上げ、怒りは全県に広がったといわれる。女性たちは、市民グループ「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」を結成。性被害の相談センターも立ち上げ、今も活動を続けている。》

 ――事件がきっかけとなって日米は普天間返還に動き出しました。四半世紀が経ったいま、どう感じられていますか。

 「いまだ実現していないもの…

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